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2012年1月12日

本「呪いの時代に」読みたいなと思ってたらの話

私をなんとなく知っている人は、私がしばしば「呪い」みたいなことをくちばしるのを知っていると思います。

私にとってのはじめての呪い話はおばあちゃんから聞いたもの。
田舎だったのでわりと信仰能力が高かった地域で育ったのですが、子どもの頃おばあちゃんに「昔おじいちゃん呪われたんだよ!」なんていう話を聞かされて、「なんやねん、それほんまなん?!」と、衝撃を受けたことでした。

子どものころからほんとかどうかわからない話で、実際にあったのかどうか?というのは不明だったので出来事に関しては、おばあちゃんのお話ということで聞いていてあまり信じていませんでしたが、呪いみたいなのは、ありそうだよね・・・と思ったりもしました。

「結婚祝い」というのを書いていて、漢字が似ているなあと思い「結婚呪い」と書いたら、ぱっと見違いがあまりわからなかったので、よく考えたらこわい・・・というような、ことを思ったりしていました。

そんな「呪い」という字に感度高めの私が本屋さんで見つけて、読みたいわ~と思ったのが、内田樹さんの「呪いの時代に」という本。買わずに数日経って忘れそうになっていたら、こんな記事があったので読みました。

内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]



これを読んでいると、呪いっていうのは、やはりよくないとされているものなのかな。と思いました。たとえば、自分が呪われると思ったら、いい気分とか嬉しい!っていう気にはなりにくいです。

呪いと言葉が結びついているというのが、私の中では、一瞬よくわからなかったのですが、呪う方法が言葉でできるというのは、おばあちゃんの昔あった呪い話で、何やらわからない道具を使って儀式をして呪う・・・っていうのとは違って、わりとお手軽なもんなんだなあと思いました。
暴力は生身の人間ではなく、記号に対してふるわれます。その地に住む人々が集合名詞で名指しされ、記号的に処理されたとき、すさまじい軍事的破壊が可能になった。呪いとはそのことです。一人一人の人間の一人一人違う顔を見ないということです。
内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
おばあちゃんから聞いた呪い話だと、ガチでじいちゃんを呪ってきたと聞きましたが、その呪いの原因が何だったのかと聞いたら、戦後、家を建てたからだそうです。それが気に食わなかったと。その家の大黒柱を呪えばその家は安泰ではなくなると。

私が誰か特定の人は嫌わないけれど、もし嫌いだと判断するものがあるなら、その現象や傾向であり、それを言動にして実現している個人をきっかけに、怒りや嫉妬・・・そういうものが、出てきます。

これを作り上げる要因は、おそらく劣等感や克服されない個人の奥深い問題なんだろうなあ。と、わたしは予想しています。そういう問題を表にださずに、自分をイイ人だとアピールしたい場合なんかに、そういうのを出してしまうことは恥ずかしいことだという感情やプライドもあり、隠すように取り繕うと思うのですが、出てくるものです。

言葉と呪い的なものがむすびついているのを肌で感じていて、個人的な問題を克服できない欝屈を抱えたまま生きていたりすると「自分は呪いを使っていない」という、正当化みたいなのがあるのか、よしとされる言葉を使って呪うというのを、見かけるようになりました。というよりかは、インターネットを見ていたら、見やすくなっていた。だけで、ネットだからっていうわけでもないはず…。

自分は美しい、勤勉である、努力家である、謙虚である…そんな人物である。
明らかに呪っていると思われる言葉を使えば、その言葉について指摘されますが、その言葉を使う人を指摘する側がまるで悪者だと思われる言葉を使って武装して呪うという、手の込んだカラクリを作ったのは誰ですか。
正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。
内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
呪いを祝いにする手の込んだカラクリを人に向けてやり過ごすのもいいんだけれど、とにもかくにも、最強の敵である自分を攻略することが、どれだけ忙しいことか。

人を祝うのは、その人を祝おうと思っていなければ、祝いの言葉・・・というよりは気持ちから生まれる言葉はできないものですから、こういうことを言っておけばいいようなことを言って、その場を取りつくろえるように、ちょっとした工夫があるだけです。
そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。
内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
そういうことです。
で、そんなようなことを言ってるのを、私が聞いた覚えがある方がこちらの方。(私のデータベースからなので、もっとたくさんいるはず。でも知らない)私は彼が記述しきれないほどの人間の様を書いているのを読んで、笑いました。読んだのは告白。宿屋めぐりは読んでません。
「我々が生きている世界にもおかしなことがいくらでもあるが、現実のおかしさを書いても、正しい世界のほころびを描くに過ぎない。常識とか正しいと思っていたことが根本的に通用しなくなるさまを小説に採り入れるには、狂った世界が必要でした」
asahi.com(朝日新聞社):町田康さん長編『宿屋めぐり』発表 正義通じぬ世界描く - ひと・流行・話題 - BOOK

常識とか正しいと思っていることが通用する世界だから、おかしなことが通用しているのは、滑稽なことです。

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