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2012年1月19日

好きっていうのは嬉しいことみたい


なにかが好きな自分が好きなのか、単純に好きなのか。
そんなことを思いながら考えていたら、何かが好きだなあ。という気持ちがあるのは、私の中で、嬉しかったり、喜びだったりするらしい。ということが、わかった今日の朝です。おはようございます。

いやいや。好きっていうのはそんな単純なものではないんだよ。てやんでぇ!
と思ったけれど、嬉しかったり喜びがそこにあるらしいぞ。というのに気づいたので、今日はこれで良しとします。



なんで好きになるの?

どうすれば、好きになるのか?というのを考えてみると、ただの思いこみなんじゃないの?と思ったりもするのですが、好きだというのは不思議なもので、恋とまではいかないにしろ、何か変なフィルターをかける癖があり、それは居心地がよいのか、きらいにならないための、理由さえも探そうとしたりします。

きらいになるハードルが高く設定されていて、なかなかきらいにならないのは、たぶんなにかをきらう自分がいけないとかかっこ悪いというものがあるからだと思うので、ああ、私は卑怯なやつだなあと思うのです。だから、好きになるほうを選択しているのかもしれないですね。卑怯ですねー!私は邪悪なので、その卑怯戦法は、あり得ますね。


きらいになるのはあまり望まれてない

生きているとなんとなく、きらいになることが望まれていないと、肌で感じるのですが、それに答えようとしているのでしょうか。

または、自分がきらわれたくないという願望があり、それを実現するためにそれをやらないという選択をしているのでしょうか。こちらのほうが当たってるようにも思います。


肯定したいのか否定したいのか

こんな単純なものではないとは思いますが、好きなことは否定したくないと思いました。否定していると、好きが楽しくなくなってしまいます。

ただ、自分が否定的な気持ちを持っているものを、どうにかのりこえてほんとに好きになったとき、妙に思い入れを抱くようにも思います。ただ、この好きになるための壁がのりこえられないで苦労するので、もう好きにならなくていいや…と諦めることが多いです。


好きであるというのは危険なのか

好きだと変なフィルターをかける癖があるので、私は好きなのは危険だと思っています。
危険に身を置きながら、絶望が先にあるとうっすらと見えつつも、好きを選ぶのは逃げているのでしょうか。見方が確実に偏りを見せていることにも気づきます。しかし、居心地は悪くない。

危険を察知しなければいけない場合には、好きである・肯定が感覚として邪魔になりますが、安全だと判断したところで楽しく喜びを感じながらいるには、好きであることは、便利です。

そう思えば、好きでいられるというのは、安心に身を置いているような感じなのかなあ。と思いました。

と、今日の考えはここまで。
もし、好きなものが安心であるとしたら、どのくらい安心できるものがあるのかなあ。

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