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2012年2月3日

完璧なものを良しとしたい心



生きていると、完璧なものを良しとした価値観で生活しているなあと思うことがあります。
いわゆる、欠点なく優れているいるものが良い。という感じだと思いますが、自分の中では「そりゃそうだろ!」と、当たり前だと思い込んでいるかもしれませんし、ちょっと考えて「完璧なのもどうかと思うよ」なんて思ったりもします。

じゃあ、完璧じゃないものは優れていないか?よくないのか?と言われると、「そういうわけでもないよ。」と思ったり、「まあそういうこともあるよね」と思う反面、わりとそれに対して否定的な気持ちを抱くこともあります。

じゃあ、自分の思ったことをちゃんと話すことができるのはよしと思っていた場合、それがまだ言葉を覚えている途中でうまくできない場合、ダメだよ!と思わず、こういうんだよ。とか教えたり、わりと寛容だったりします。




完璧なものと安心

私は今年は”不安とは何なのか?”という漠然としたテーマでものごとを考えることがありますが、完璧というのに触れる場合、安心というものも感じることがあります。

製品などの場合、それが完璧であることを求めていたりします。
人に対しても、欠陥がなく自分の思う完璧な人に、憧れをもったり信頼したりします。
それは、自分を不安にさせない安心感があるからなのかもしれません。

インターネットの情報に対しても、いかにそれが正しく真実であるかという面に価値を持つことがあると思います。そういうことが望まれていることも肌で感じていて、そういう情報を発信しよう、気をつけようと思う心があったりなかったりもします。

完璧ではないことが不安とは言い難いとは思うのですが、真実や正しさの面で完璧とは判断しにくい、ガセやウソに対しては、不安になると思えばそれに否定的な気持ちを持つかもしれません。


完璧な親

子育てをしていると、親として完璧でありたいと思う反面、それがとてもむずかしいことだと思うことにたくさん直面します。完璧が良いと思い込んでいた私にとっては自分にそれができなかったことが、とても凹む事実であり、なんてダメなやつなんだろうか。と思うことが多く精神的にも疲れました。

しかし、子どもは私が完璧にできないことに対して、否定的ではなく許してくれていました。感動しました。なんて徳の高い人なんだあ!と、私は生まれて10年もたっていない人にそんなことを思うのでした。

子どもが親の完璧ではない部分にわりと寛容なのは、子どもが知っていることのなかで判断しているから、社会に出たときのハードルよりこえやすいのかもしれません。だんだんそれも厳しくなってくるとは思いますが、完璧ではなかったとわりと凹む私に対して、否定的ではないという姿勢は、今まで自分が感じていた恐怖はなく、とてもうれしく感じたと記憶しています。


完璧と恐怖と不安

完璧を売りにしていない場合、完璧ではない自分に対する外からの刺激が、否定的であることは恐怖であると感じています。なので、恐怖を感じていると、それを回避したいために、出来る限り完璧でいたいとか、ずるをして完璧に見せておこうと思うようにもなったりします。もしくは、自分は全然完璧ではないと、開き直ってみたりする言動をしてみたくなって、その刺激に関与しようとしなかったりもします。

出来る限り完璧でありたいという姿勢は、私は良いと思うのですが、その理由が恐怖から逃れるためというのは、楽しくない。ずるも開き直りもあまり良い状態であるとは判断できないです。

完璧信者だと、人に騙されやすいんじゃないかとも思うんですよね。

完璧ではないことを否定的にとらえている外からの刺激が、もし不安によるものだとしたらどうでしょうか。

不安になっている人を、安心させたいと思う気持ちで、自分は完璧になりたいと思った努力って、自分にとっては楽しいことだと思うのです。生活から離れた場所では、完璧に近い人格のようなものを求められることが多いですが、人であるのに生活と切り離して考えなければいけないのも妙です。

自分の周りにいる人たちが、どれほど立派な人であっても、完璧ではない部分もたくさんもっているというのは、生活の場では、よくありますので。

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