自分が感じたことや思ったこと、うやむやとしたことが言葉にできるというのは、嬉しいことなのです。子どもは親が思っているほど、言葉にしていることは多いわけではないようで、「それはこういうんだよ。」と、教えた時の、嬉しそうな顔は忘れられないものです。
自分の状態を伝わりやすい言葉で身につけることは子育ての中で大事なことだと思うので、子ども同士で伝わるような、親としては少し使ってもらいたくない言葉も見守ります。
そういえば関係ないですが、言葉を覚え始めたときの「アンパンマン」と「うんこ」の連呼は思い出深いです。アンパンマンとうんこを、一生でこんなに聞く機会はなかったものですから…。
言葉というのは自分を苦しめるものでもあるので、自分が苦しくなる言葉ばかりを言葉にする必要はないというのも、教えたいと思っているのですが、その機会は今はなかなかみつかりません。
ああ、ひとつありましたね。
「わたしはべんきょうができない」
小学生になって、ある日ふと、娘が言うようになりました。
今までそういうことは言わなかったので、授業を通して、友達との違いを知ったのだろうなと思いました。「あなたは、あなたよ!気にしないで!」なんて言おうかと思いましたが、せっかく気づいたことなのだから、もうちょっと気にしてもらおうかな…と、思いました。
「へぇ~勉強できないんだ。ほんとうにできないの?」
なんて聞いてみたわけですが、「かん字はていねいに書いているよ!」とか、「本はいっぱい読んでる!」と、いい始めました。「じゃあ、なにができないのさぁ。」と聞くと、「かけ算がおぼえられない。」のと「文しょう問だいがにがて。」なんだって。
「それって、勉強ができないっていうの?」と聞くと
「できないじゃん!」と、ちょっと半泣き気味でしたけど、
「それは、かけ算を覚えて文章問題もやってみようよ。それからできないか決めようよ。それができるまで、ぜったい勉強ができないなんて言わないでください!」
というと、その時は納得してもらえたんですが、これでよかったのでしょうか。
不思議とそれからは、あまり聞かなくなりました。
言いすぎたのでしょうか。と、私やや反省。
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自分を反省させる意味でも言葉に押し込むことは大事なんだとは感じますが、それは自分を成長させるときに使えます。
言葉に自分を押しこんで辛い思いをするなんていう自分勝手なことをしている自分もたまにいるので、そんなことをする必要性もよくわからず、なんのプレイやねん。と、ふと思いました。
言葉にした瞬間に襲いかかってきます。何かが。
言葉に押し込めるのは便利なことではありますが、言葉にしてしまいそうになるとき、何かきちゃう。と感じたら、思いとどまって「アンパンマン」とか「うんこ」と言って、少し間をおくのもいいんじゃないかと思っています。(やなせ先生、なんかごめんなさい。)
そんなお守り言葉、なにがいいですかねぇ。