私はしばしば、「個人的な問題」と「都合」の関係について考え事をします。
こんなことを考えてるので、いろいろ迷宮入りすることも多いですよね!
2行書いていきなり疲れました。
世間話でもさせてくだされ。私の世間話長いよ。
子どもたちは、私にくらべると大きさが小さい人間なので、
心の中には色んなものが詰まっていてかわいいのです。
この前、何人か年が違う子たちが遊んでいました。
子どもは集まって遊んでいると、まあ、ちょっとした口論やらぶつかりあいがあります。
私は、そういうのを見ていて「まあ!いけない」と思い、間に入ろうと思った時期もありました。これは「自然なことでもあるよなあ。」と思いとどまり何も言わずに見守ってました。
小学生低学年くらいには学校でも相手のことを考えるということを学んでいくので、その知識もあって、ちょっと冷静になり相手のことを考えてできるだけよい行動をしようと考えられます。こういう側面と、そういうことを考えないで自分のありのままの感情でいる状態が、でたりひっこんだりします。
ぶつかりあいがはじまり、誰かが私に助けを求めてきたとき、ちょいちょいお互いなんとかうまくやるように考えてごらんと言うと、しばし考えて、すぐにまた一緒に遊びはじめます。でも、すぐに同じこと起こるのw
私は、何回けんかになんねん!と思いつつも、これはぶつかり稽古みたいなものだということで、見てます。
私は、子どもがよい行動をしようと意識している様子も好きで、意識していることを褒めますが、褒められるために過度に無理をしている違和感が個人的にきらいなので、それは評価できません。
ここで、はじめの話に戻ります。
「個人的な問題」と「都合」の関係についてですよね。
気持ちっていうどうにでも考えられ不確かなものがあります。
本人さえもわからないといういわくつきのやつ。
これ、私の3点セット。
(1)褒められたいと言う気持ち
(2)褒めてほしいという都合
(3)褒められなければいけない個人的な問題
褒められなければいけない個人的な問題のための褒めてほしいという都合に、
あわせることがよいことなのか?考えます。
褒められなければいけない個人的な問題にまつわる気持ちは守るものである。
と判断すれば、褒めます。
見ず知らずの人にまで、これほどまで親身になる余裕がないときがほとんどですが、考えてはいます。
ややこしくなった。
個人的な問題にまつわる気持ちが守るべき気持ちであると判断した場合に守ります。
それは、私の個人的な問題にまるわる気持ちの都合です。
気持ちを守ることで守られたい気持ちの現れであり、軽視していることではないということですが、なんとも納得できないようなもんやりしたものもあるということです。
○×で判断しているように見えて、その判断基準が思いもよらずもんやりした側面があるということです。
(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合
で判断できることが気持ちよく進められることと思いますが、
あれ?何か妙な感じがするぞというときは、3つありまして、
(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合
(3)★★という個人的な問題
都合をあわせてほしい側にとっては、一時的に都合が満たされるので、個人的な問題は解決しませんが、気分はよいです。でも、これは個人的な問題なので、都合でどうにもなりません。
都合をあわせる側にとっては、個人的な問題を踏まえ、都合に合わせる情熱を持つことができるのか!と私は考えたりするわけです。
子どもが親を見るときも同じです。
親の個人的な問題による都合に、自分をあわせなければいけないことがあると、
あれ?モヤッ!とする原因であることが多いです。
ここには個人的な問題領域がないだろうなと油断するような場合もあり、子どもは親に対してかなりの油断している状態なので、油断大敵ですよと、言うことが大人になってわかりました。
油断大敵状態が理解できずに苦しんだ期間があるのですが、気づいた時に、もやっとしたことが晴れてすっきりしたわけです。単純に言えばこう!というのは何度も見ていたはずなのに、どんなけ自分、考えてるねん・・・と、自分の思考のカオス状態に、呆れるしかありません。
長くなってしまうのですが、なかなか理解できなくてね・・・。
もうちょいうまくまとまるといいですけどね。今日は出来なかったみたいです。
何を言っているのかわからない方のために簡単にまとめれば、
恥ずかしいことを書いているということです。
下手の長談義にお付き合いいただき、ありがとう。