そういう評価をしている上で、私のそれを欠点であり改善したほうがよろしいと私に対して親身になってくれる人は、その部分を矯正すればよろしいとアドバイスし気をもんでくれます。しかし、私はそれらのアドバイスをすぐに目に見える結果でこなすことができず、その人をガッカリさせ、時として怒らせます。
もともとダメだと思われているので、さらにどうしようもなければ、さらにダメだと判断され、もっと何か欠点があるのじゃないのかといろいろと探られ、ことあるごとに欠点を見つけられては、指摘され続けます。自分でもできなかったことがわかっている上に、さらにダメだしをされるため、自分はダメなのだろうと思うようになります。
がんばればがんばるほど、疲れがひどくなり心も荒み、体を壊したり精神的に不安定な状態がずっと続くようになります。
ただし、これは、私の性質が認められない場合のケース。
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私が子どものころから感じている、自分が好きだと思っている人は、私の性質に対して肯定的で、うまくできたことをよいと評価してくれます。うまくできたので、今度はこんなこともできそうじゃない?こういう考え方でもやってみたらどうだろう?これにも応用できそうだよ。と、さらにおもしろいことを持ちかけてきます。
そういう評価のもとでは、うまくいったことを積み重ねたり、工夫したり、大きくしたり小さくしたり、無駄だったことは削ったり、失敗したことは違う方法を探していこうだとか、試行錯誤や切磋琢磨をしていくようにアドバイスをしてくれます。
たとえそれに時間がかかっていても、時間がかかっていることそのものがいけないという評価ではなく、時間がかかるものであるのか、こうすれば短縮できるといったことを教えてくれます。
がんばれば・・・というより、おもしろがってやっているので自分ではがんばっているという意識もそれほどなく、没頭していたり夢中になって、やろうやろうとするので、ずっと楽しい状態で過ごすことができ、生活の中からも、それのためのヒントを探し続けるので、寝るのもおしいくらいの気分になり自分に起こることが何もかもおもしろくなります。
これが、私の性質が認められている場合のケース。
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これは、自分が自分に対して指示を出しているもう一人の自分がやっていることです。
とまあ、自分の内で起こっていることのようにはぐらかしたりもしましたが、実際にそういう人には遭遇していて、私がいやだと思っている人でかつ親身ではない人はもっといろんなことが起こるわけですが、それはここで話題にしなくてもいいでしょう。