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2013年8月26日

ブログは料理に似ている

ブロガーサミット2013というイベントがあり、行ってないので何があったのかよくわからないのですが、楽しそうでした。

私はブログも好きですが、Twitterもだいぶ好きです。Twitterおもしろいですよね。

ブログは楽しいものですが、より楽しくなるようにするならどうすればいいかたまに考えます。うそです。考えてないです。

どう風呂に入ったら風呂の時間が楽しいかとか、毎日どんな風に過ごしたら1日楽しいかとか、毎日料理作るのどうしたら楽しいかとか、自分の楽しみ方を追求すると同時に、それをするために何が起こると楽しくないかとか、どうすればよくなるかとか、いろいろ考えます。うそです。考えてないです。

毎日似たようなことをしているけれど、こんなこともしてみたら楽しかった。
たまたまこんなことがあって楽しかった。という楽しみもあるのは事実です。

私の中ではブログもそういうことに似ているところがあり、先にあげたことの中で当てはめるなら、ブログは料理作るのにいちばん似ているかなあと思います。

レシピブログの話もあったようですが、ブログを続けるのは、私にとっては毎日料理するのにとても似ていると思っていました。


2013年8月25日

たまに夫婦でよくやるやつ

夫が困るやつです。



2013年8月13日

ハチに刺されて思ったこと

もう刺されてからだいぶたっています。生きてます。

最近、夜中にハチに刺されました。
自分の足にアシナガバチが引っ付いているのを見て、はじめは全く意味がわからなかったんだけど、数秒考えた結果(わたし、死んだな)と思いました。(これは遺書とか書いておいたほうがいい?)とかも思いましたが、よく考えたら、まだ生きていた。

(うを!生きてた!これは、生きねば!)と思い直し、すぐに応急処置をしたりしました。
私はラッキーなことに、ショック症状が出ることなく、生きていました。
刺されたところは数日痛くて、数日後、痒くてたまらなくなったけれど。

+++

今までは、ハチを見ても、(ハチだな~)くらいにしか思っていなくて、ひどく怯えるようなこともありませんでした。
でも、一度ハチに刺されたからか、ハチを見ただけで今までなかった警戒心が生まれるようになりました。

こういった自分の変化について、ふと思ったことは、
自分に何かあるものには、警戒したり、慎重になったりするものだということです。

たとえば、食べてもアレルギーが出ない食べ物には、注意しないとか。
健康だと病気になる前に予防しようと強く意識しないとか。

いろんなことへの注意をそこまでしないで生きられます。
だから、慎重だったり警戒している人を見てもよく理解できなかったりもできてしまいます。
自分には関係ないかもしれないけど、注意している人が感じている警戒のサイン?シグナルみたいなのは、その人にとっては意味のあることなんだということです。

そういうのを見て、人にいちいち、「なんでそうなの?」なんて聞くことはほとんどないんだけど、理由があるんじゃないのかなあと意識できるようになったので、私ハチに刺されてよかったですねッ!

まあ、いろいろです。

子どものころ夏休み、おばあちゃんちでひとりボッチになった時の思い出

小学生くらいのころから、夏休みにおばあちゃんちに遊びに行っていました。

私が子どもの時の、ある年の夏休み。
「おじいちゃんがいるから。」と言って、おばあちゃんが出かけていきました。
夕方には母が迎えにくるのがわかっていたので、部屋で猫と遊んでいました。

猫は気まぐれなのか、ちょっと遊んだらどこかに行ってしまい、すごい広い畳の部屋でひとりぼっちになりました。おじいちゃんは、畑にいるみたい。

田舎なので何も音がしなくて、柱時計がカチコチする音しか聞こえてきません。
いつも住んでいるうちではないし、ここのうちのご近所さんもお盆でどこかに行っているみたい。

縁側に座って、ぼーっと庭を見ていたら、急にすごい孤独感のようなものに襲われて、涙が出てきました。

みんなどこかに行ってしまった。
誰もいない。
自分ひとりになってしまった。

という感じの、なんとも言えない寂しさでいっぱいになって泣いていたら、畑からおじいちゃんが帰ってきたようなので、泣いているのがばれないように涙をふいて、猫を探しているふりをすることにしました。

おじちゃんは、まったく何も喋らない人だったのと、怒ると怖いので、二人っきりになっても、どうしようもないと思っていたんだけど、畑でとったトマトを持っていて、(おやつがわりに食べろ)みたいな感じで、私を見つけて渡してくれました。
もちろん何も喋らないw

しばらくすると、おばあちゃんが帰ってきて、その時の安心感といったら!
子どものころの私、どんなけ安心したことか。

+++

年は過ぎて、私は今は、夫や娘がいるので、たとえ一人で家にいても、みんなが「ただいまー」と家に帰ってきます。でも、たまに思うんですよね。

待っても、待っても、誰も帰ってこない時がくるのかなあ。と。

子どもが結婚して別の家に住んで、夫婦二人で住んでいたおじいちゃんとおばあちゃん。おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんはしばらく一人で住んでいました。
でもおばあちゃん、ある日、なにもわからあへんようになってしまった。

私だって、もしかすると、年をとって体の自由もきかなくなってしまった時、待っても待っても誰も家に帰ってこなかったら、なんもわからあへんようになったほうが、幸せかもしれへんなあ。と、思ったりもしました。
残念かもしれないですけど、そのくらいさびしいはずです。

でも、まあ、今はそんな日々ではないので、
このことは、しばらく忘れていよう。

2013年8月12日

父娘で映画を見に行った時の感想の違いが面白かった話

ある日、夫が娘を連れて映画に行きました。

夫は、ジブリの「風たちぬ」を、休日に娘と見に行こうと思っていたようですが、娘が一緒に行ってくれなかったので(気の毒に!)、切なそうにしてました。

ジブリはアニメだし、公開すぐに休日に見に行くなら、周りはファミリーやカップルが多いとも予想され、わりといつも感動して泣いてる気がする夫なので、私は、

「おっさん一人で行って、号泣とかしてるとか怖くないか・・・。
 娘が一緒だったら、お父さんかもしれないけど、ひとりだったらおっさんだよね?」

と聞いてしまいました。
夫は、

「俺、おっさんじゃないもん!」

と主張したけど、やや不安な気分にさせてしまったようで・・・。
結局、子どもがいなさそうな夜の時間帯に、一人で見に行ったらわりとよかったらしい。


+++

映画を見に行く前の夫と娘の私への報告


無駄に不安を煽ってしまったからか、夫はジブリの他にもう1本見たかった映画があり、それは娘を誘って一緒に映画館に行くことに成功(よかったね!)

(それ、ジブリより一人で見に行っても大丈夫な映画じゃん・・・)とは思ったんだけど、二人で出かけることに決まったようです。決まったことを、それぞれそれを私に報告してくれたんですが、

娘によると
「おとーさんといっしょに映画にいってあげることにした。(´・ω・`)」

夫によると
「ご褒美に映画連れて行ってあげることにした。(o´▽`o)」


夫、夫よ・・・(´;ω;`)ブワッ

私は複雑な気分のまま、
二人が映画に出かけていくのを「いってらっしゃ~い」と見送りました。
(ヤッタ!今日、夕飯作らないでいい!)


+++

映画を見てきた夫と娘の感想

夜になると、二人が帰ってきて、
それぞれ映画を見た感想を教えてくれました。


娘によると
「ぜんぜん面白くなかった!!!!!!!(´・ω・`)」

夫によると
「すっげーおもしろかった!!!!!!!(o´▽`o)」

娘は無理やり連れて行かれたので、おもしろくなかったのか?
アニメじゃなかったからだろうか?内容気に入らなかったのかな?
と思ったんだけど、ずっと話を聞いていると・・・


なんでか字幕版を見たらしい!!


なんでやねんw
まさか字幕版のほうみたなど想像できなかったよ・・・。

娘は小学校中学年なのである程度、字幕は読めたけど、
まだ知らない漢字があるし、字を読むのが大変すぎて、おもしろくなかったんだって。

二人で映画に行って、うまくいったのかどうなのかよくわからなかったけど、映画でおもしろかったところを二人とも一生懸命私に話していたので(私は聞いてもなんのこっちゃわからなかった)よかったのかなあと思いました。

ちゃんちゃん。

2013年8月10日

ブログを続けてきて最悪だと思った出来事 #ブロガーサミット

夏ですね。そちらも暑いでしょうか?

【ブロガーサミット2013】 あなたがブログを続けてきて良かったと思った出来事を、ブログに書いて教えて下さい。
アジャイルメディア・ネットワーク株式会社 | Fans:Fans
https://fansfans.jp/campaigns/detail/1206

これを見て、先に真面目に記事を書きましたが、真面目なのでブロガーの成長についても考えています。すぐに参考になる情報を思い出せませんでしたが、手元にあったこの書籍に成長に不可欠なことがたまたま書かれていたので、参考にすることにしました。

ありのままの自分をひたすら肯定するプラス思考のままでは、ありのままのあなたは、いつまでたってもありのままで、成長することがないでしょう。ありのままの自分を乗り越えていくことが、成長には不可欠です。
プラス思考をやめれば人生はうまくいく マイナス思考法講座 』はじめに P7より引用

「ブログを続けてきて良かった」とありのままに思っているのは事実なので、
「ブログを続けてきて最悪だ」と思うことが、ブロガーの成長に不可欠だと思いました。

この本を参考に、真面目に記事を書いたらこんな記事になってしまったのですが、前回と同じくうまく書けたという手ごたえもなく、自分はブログには向いていないのでしょう。それでもなおブログを続けていると、最悪なこともたくさん起こるので、それを書いておきます。

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ブログを続けてきて最悪だと思ったこと


■ブログを書くこと

・ 時間や金の無駄である
・ 自分の存在が知られる、嫌われる
・ 健康にも精神的にも悪い

■ブログを読むこと

・ 時間を使う
・ 気分が落ち込み消耗する
・ 騙される

生きていくうえでは、ブログに無理に夢などを抱く必要はなく「したくないこと」ときっぱり諦めるのがおすすめの方法です。

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ブログに自分の人生の時間を使うことは、言い換えてみれば単なる時間の無駄でしかないので、人にやめろと言われるようならさっさとやめたほうがまともな人生をおくることができる可能性も高まります。

それでもブログをやめられず続けてしまった場合には、ブログでしたくないことをつきつめ、成功事例よりも最悪なケースを親切に公開してしまっている脇の甘いブロガーの情報を初期段階で参考にするとよいです。これからブログに無理に夢を抱いてはじめようと思っている方は安易にはじめず、おそろしい災いがあることを知ることができおすすめです。

ブログを書くことで招く8つの災い #ブロガーサミット - Hagex-day info

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ブログを書かなければ死んでしまうようなことはありません。
むしろ、ブログを書かなくてはいろんな意味で死んでしまうような人がブログを一生懸命書いていると偏った考えを持つくらい慎重でもいいのでしょう。

これからブログをはじめようと思っている方は、ブログを書かなくても生きていけているはずなので、ブログを毎日書いたりすることをすすめる情報に対しても「そんな時間はない」と冷静に判断し、慎重に接することが出来るならば、参考情報として読むくらいでいいと思います。

やっている人のみがそういった情報を発信しているため、何度もそういった情報を目にしてしまうと信じそうになりますが、何もわからないなら2週間~1ヶ月程度やってみれば、無理であることに気づけると思うので、そこで自分はダメだなどと思わず、さっさとブログはやめたほうが、ブログによってもたらされた悩ましさをかかえたまま人生をおくることを予防できるのでおすすめです。

また、ブログをはじめることによって、ブログをやらない状態よりも自分を嫌う人の数は格段にアップするため、いかに嫌われないかを考えながらブログをやることに無駄な時間をついやしたりするのを予防するために、ブログをやらないのがおすすめです。

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人間は時代が変わってもインターネットを使っても本質は変わることもめったにないと思いますので、インターネットで見たことで目新しさに心惹かれたりもしますが、そういう時は、自分は刺激のない日々を送ってるのかもしれないと疑い、今日はどんな美味しいものを食べようか考えたほうが自分のためになることがほとんどです。

ブログを書いたから死んでしまうようなありませんが、ブログを続けるだけで生きていけると思い込むことはリスクも多いことをしっかり把握しておかなければなりません。
ブログを書きさえすれば大金持ちになれるとか、有名になれるとか思い込んだりしている時は、自分は何かに疲れてしまっているのではないか?と、自分を心配するように心がけ、ブログではなく自分の生活を見なおすと、そういうことを思わなくなります。

ブログはつまらないもので、書いても誰も読んでいないということを前提に、自分が書きたいことを書く場合は、適当な記事のタイトルをつけ、刺激になるような見出しや画像をいれずに文字をぎっしり書いておけば、誰かがたとえ何らかの方法でブログと接点をもってしまった場合にも、見た瞬間に自分とは関係ない・読んでも無駄そうと思ってもらえ、それでも読んでしまったと思わせることもできます。

ただし、ついうっかり読んでしまい、そもそもつまらない話しか書いていないので、
ブログに書かないことがもっとも頭の良い賢い選択だと思います。

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それでも、ブログを続けてしまった場合は最悪で、旅行の準備をしなければならないにもかかわらず、ブログを書くことに時間を使ってしまったりなど、人間的にダメな感じになり、それを修正するために、通常では必要のない努力までもしなくてはいけなくなるため、ブログはやらないのがやはりおすすめです。

ここまで言っているのに続けてしまった場合は、ブログとともに死んでいくような人生であると諦めることができるので、ブログを気持ちよく続けることができます。
つまり諦めることが、特にこれといったとりえもないような人がブログを続けられた方法です。

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この本に書いてあることを鵜呑みにして絶望ワークをやると無駄に疲れるのでおすすめしません。
また、はじめに成長することがいかにもこれからよいことが起こり幸せになれそうだと思っているならば、それも錯覚です。

インターネット上には、非常に多くの失敗している事例が掲載されていることが特徴なので、それを参考にし、危険を回避しながら生きていくための参考にしていただければと思います。

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ありのままのじぶんバージョン
もかりの: ブログを続けてきて良かったと思った出来事 #ブロガーサミット

ブログを続けてきて良かったと思った出来事 #ブロガーサミット

どうも、妊娠9ヶ月の妊婦です。人生二度目の妊娠9ヶ月を満喫。超大変です。
本日「ブログに書いて教えて下さい」という楽しそうなテーマを見つけてきたので、記事を書こうと思います。

これ

【ブロガーサミット2013】 あなたがブログを続けてきて良かったと思った出来事を、ブログに書いて教えて下さい。
アジャイルメディア・ネットワーク株式会社 | Fans:Fans
https://fansfans.jp/campaigns/detail/1206

はじめに言いたいのは、私は「ブログを続けてきて良かったと思っている」ということ。ひとつのブログをずっと続けてきたというわけではないのですが、ブログは続けています。

ブログを続けるということは、「書くこと」だけではなく「読むこと」もブログなので、それらについて、私が「続けてきて良かったと思った(自分の内面に起こった)出来事」を書きます。

私はブログで「ブログを書くこと」と「ブログを読むこと」が出来ました。
これらに自分の人生の時間を使うことに価値があるという価値観があり、人になんと言われようとも今も譲れません。(頑固!)でも、私が本当に大事に思っている人がやめてくれと、本気で心の底から言うならやめようと思います。


ブログを続けてきて良かったと思ったことを3つピックアップ


■ブログを書くこと

・ 私は、「表現することを意識する」ようになった
・ 私は、「人に何を伝えたいか考える」ようになった
・ 私は、「何を書くか書かないかという判断をする」ようになった

■ブログを読むこと

・ 私は、気持ちが寛容になった
・ 私は、ものごとを考えるためのヒントをえた
・ 私は、言葉に出来ない気持ちを言葉として認識できた感動をえた

ただボンヤリ生きているよりも、何かを意識することは良い変化だと思っています。
その意識したものの中でも、自分にとって良いものに集中しながら生きることは、楽しいことです。
それを何個か心の中に留めて置くだけでも、日常生活が違う世界になるというのに気づき、その意識するためのきっかけをブログから得るということも身につけました。

自分だけでは得るものは限られてしまいますが、ブログを読むことでさらに得られるものは増えます。
どうしても受け入れられないようなことも目にしたり、動揺したり、釣られたり、煽られたりもするようにもなりますが、何度かそういうのを体験していると、気持ちも寛容でいられるようになりました。

前の記事にも書きましたが、自分の信念がブレない限りは、だいたいのことはどうにかなりそうと思います。

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なんでブログなの?


じゃあなんでブログなの?と言うことで、話せばいいじゃんみたいな感じでもありますが、話すことと書くことは私の中で微妙な違いがあります。

話すということは、
相手がいてその相手の反応や刺激を受けながら、それにあわせて反応する

書くということも、
相手がいますが、書いている時には、相手の反応や刺激は書き終わったあとにある

一方的に話す機会も、書くのと同じでは?と思いました。
でも、話すという場では、場の雰囲気や時間などがあります。

それに影響されず自分の気に入った場所で誰かの時間に合わせなくても、自分がじっくり取り組みやすいのが書くほうでした。

それがたまたま自分に合っていただけと思います。
なので、話すことのほうが合ってる人には、ブログや書くことを押したいとも思ってません。私は、書くこと、そしてブログが良かったmitai。

+++

原動力はなんだったのか?


外からの評価や刺激も確かに続ける力になっている面はありますが、それよりも、自分の内にあるものが原動力になって続けている活動のひとつだから、私はそれが消えない限り続けることができるという自信があります。

これがなかったら、ブログには興味をもたなかったし、続けることはできなかったでしょう。私の内にあるものが何かと言うと、ブログをはじめた時から持っていたものでしたが、それを意識できるようになるまでは、長い時間がかかったように思います。

だけど、それが何?っていうのを言葉にできません。
よく似た感じで書くなら、「私の娘をだいじに思う気持ち」みたいな感じです。

10年前の私にはこの記事のようなことを書くことは不可能でした。
ブログを続けていたから、私はここまで書けるようになりました。
そして、これからも書くことを続けることが出来れば、もっといろんなことができるようになります。


ブロガーとしては、なんともあいまいな感じのものしか出来上がりませんでしたが、ブロガーって私だけじゃないし、きっとよく似たことを考えているほかの人が違う表現方法で書いてくれたのを読めるかもしれない!というのもブログの楽しみです。

+++

そんなわけで、私は自宅でまだ安静にしている身で、そうやすやすとは読み終わらないくそ小難しい本を買って読んでいたら影響を受けたみたいで、こんな文章を書いてしまいました。

基本的には、うんこなどを連呼したくなるような、バカの可視化をやらかしちゃうようなタイプだと思うので、そういうのも考えて自分の子どもがこれからインターネットを利用する時、メリットだけではなく、デメリットもちゃんと教えられるようにならないといけないかなとも思っています。

ブロガーサミットでどんなことが話されるのか気になります。
これも、誰かが書いてくれるかもしれないので、それに期待してみようかしら。

+++



まだ買ってない赤いブログの本を気が向いたら買う

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Fans:Fans


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2013年8月8日

内向的な人の生きる力となるものは信念

自分にとって無価値もしくは意味がない、それは望んでいることではないと判断しているもののために、めちゃがんばって評価を得ることは、たとえそれがよい評価を人から受けたとしても、私にとっては疲れるだけで、この先めんどうだと考えたりします。

人からそうしたほうがいい、そうしないのはなぜだ?と執拗に問い詰められたりしたら、発狂するかもしれません。頑固だと言われたり、要領が悪いと言われたりしていました。

私には譲れない自分の信念というものがあるにもかかわらず、強く意識したことがなかったのかもしれません。富や名誉や評判よりも、身近な人の平和な生活を望む傾向が強いのではないかと思っています。
「Conviction、信念よ」
「内向的な人が違いを生み出すには、外からどんな風にみられてもよい、どんな風に否定されてもかまわないと思えるほどの信念がなければいけない。それを持てば、内向的な人だって世界を変えることができるのよ」
内向的で、いじめられた経験ももつ私にはそれは力強い言葉でした。私はこの世に fit in するだけの存在でなくてもよい。はみ出しものであってもいいのだという励ましの声だったのです。
内向的でも成功するために必要なもの: Jonathan Fields・Susan Cain対談 #WDS | Lifehacking.jp
これは、Lifehacking.jpの2012年の記事です。これが掲載された時、まだ書籍「Quiet」の邦訳版は出版されていなかったのですが日本語の本が出版されています。でも字が多すぎでおすすめできないです。私は読んでよかったと思ったのですが。(この本について書いた記事はこちら:もかりの: Quiet 内向型な人へ


内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

私はこの本の著者のスーザン・ケインさんのTEDの動画を見て、外向的・内向的と言う何かがあるらしいと言うのをはじめて知りました。これはユングの分析心理学でも性格類型として知ることができたようだけど、私はそれには気づかなかったようです。気づいていればもっと早くに違う考え方もできたのになあと、ちょっと残念がっています。

自分が自分のことをダメだと思おうとしていたら(ほんとはそう思いたくないのに!)、自分がやっている事に対しても、自信が持てなかったり、方向がわからなくなったり、納得してやれなかったりします。なぜそう思いたくないのに、ダメだと思おうとしているかというと、自分の周りの雰囲気を見たり、人からの自分の評価がよろしくないと感じとり、そう思わざるを得なくなってしまうことが多かったから。(・・・と言うのはずるいので、こう言い換えたいと思います。)そういう風に流されていたから。

そんな中でも、いいと言ってくれる人はたくさんいます。でも、それさえも信じられない心境になぜかなっていたのです。ここまでわかってはいても、私はこういう状態からなかなか脱出することができないでいます。それが申し訳ないと感じたりもします。

+++

私は、インターネットをはじめたときから、ネットと情報発信を一生続けようと心に決めていて、それは自分のとある信念に沿ったものだったからだと思います。自分と世の中をつなぐのに使えると思ったコミュニケーションツールのひとつだから。そしてわりと安全に情報を収集することができるツールのひとつだから。

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おそらく私は内向的でしょう。そして臆病です。
腹黒かったり、自己中心的だったりもします。
自分と似ている人はわかるので、私はそんなもんだろとしか思わないけど、こういったことで腹を立てていたりする人にたまに遭遇したりもします。怖いです。
1:しゃべるのが好きではない
2:シャイである
3:不作法
4:人間が好きではない
5:人前に出るのを好まない
6:いつも一人でいたい
7:不思議な存在だ
8:無関心なオタクだ
9:どうリラックスするか、どう楽しむかを知らない
10:内向的な人はその性格を治して外向的な人になれる
内向的な人に関する10のウソ - GIGAZINE

これはウソというか誤解だといえます。
そっとしておいてあげて!

私は自分とは違うらしい傾向の人が、私に親切に接するとき、頭が混乱するようなことを一度にたくさん聞いてきたり、話したり、ざわざわするところに連れ出そうとしたりしたりするので、(私に対する嫌がらせなのだろうか?)と、思ったこともあります。ゴリ押ししてくることもあり、あまりにも悩ましいので距離を置きたくなったりもします。

これは相手のことが理解できないのではなく、自分の性質を把握していなかったため、相手を否定的に捉えてしまっていた思考にしかすぎません。これらは、すべて相手がよいと思ったことを私にもすすめたり誘ってくれている好意の表れですが、私にはなかなか理解できないことだったのでした。

それにうまく応えることができないことで、私は悩むことはありますが、自分にとってはよいことが起こっているとわかるようになったので、うまくやることができるでしょう。

私がそう思えることになったことで、身近な人の平和な生活をより実現していきやすくなったというのは、私にとって大きな成果であります。

2013年8月7日

私がいやだと感じている人好きだと感じている人

私が子どものころから感じていることのひとつに、自分がいやだなあとどこか感じ、あまりかかわりたくないと思っていた人というのは、私の性質に対して否定的であり、それを指摘し、無理や我慢をするべきだとか、ダメであるとか、欠陥であるとか、都合が悪いだとか、できないやつ、使えないやつ・・・というような評価をしてきます。

そういう評価をしている上で、私のそれを欠点であり改善したほうがよろしいと私に対して親身になってくれる人は、その部分を矯正すればよろしいとアドバイスし気をもんでくれます。しかし、私はそれらのアドバイスをすぐに目に見える結果でこなすことができず、その人をガッカリさせ、時として怒らせます。

もともとダメだと思われているので、さらにどうしようもなければ、さらにダメだと判断され、もっと何か欠点があるのじゃないのかといろいろと探られ、ことあるごとに欠点を見つけられては、指摘され続けます。自分でもできなかったことがわかっている上に、さらにダメだしをされるため、自分はダメなのだろうと思うようになります。

がんばればがんばるほど、疲れがひどくなり心も荒み、体を壊したり精神的に不安定な状態がずっと続くようになります。

ただし、これは、私の性質が認められない場合のケース。

+++

私が子どものころから感じている、自分が好きだと思っている人は、私の性質に対して肯定的で、うまくできたことをよいと評価してくれます。うまくできたので、今度はこんなこともできそうじゃない?こういう考え方でもやってみたらどうだろう?これにも応用できそうだよ。と、さらにおもしろいことを持ちかけてきます。

そういう評価のもとでは、うまくいったことを積み重ねたり、工夫したり、大きくしたり小さくしたり、無駄だったことは削ったり、失敗したことは違う方法を探していこうだとか、試行錯誤や切磋琢磨をしていくようにアドバイスをしてくれます。

たとえそれに時間がかかっていても、時間がかかっていることそのものがいけないという評価ではなく、時間がかかるものであるのか、こうすれば短縮できるといったことを教えてくれます。

がんばれば・・・というより、おもしろがってやっているので自分ではがんばっているという意識もそれほどなく、没頭していたり夢中になって、やろうやろうとするので、ずっと楽しい状態で過ごすことができ、生活の中からも、それのためのヒントを探し続けるので、寝るのもおしいくらいの気分になり自分に起こることが何もかもおもしろくなります。

これが、私の性質が認められている場合のケース。

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わかりますか?
これは、自分が自分に対して指示を出しているもう一人の自分がやっていることです。

とまあ、自分の内で起こっていることのようにはぐらかしたりもしましたが、実際にそういう人には遭遇していて、私がいやだと思っている人でかつ親身ではない人はもっといろんなことが起こるわけですが、それはここで話題にしなくてもいいでしょう。

2013年8月6日

Quiet 内向型な人へ

去年の年末に私は興味深いことを知りました。

自分は周りからの刺激に対しての感じ方が、自分以外のある傾向の人とは違う感じ方をしているのであろう。と言うことです。それは自分がどういう風に感じる傾向があり、どう思っているかというにすぎないことかもしれません。

強い刺激を好まないだとか、刺激が強いと疲れてしまう。
その刺激の強さは同じ現象であっても、感じ方が違えば強く感じたり弱く感じたりする。そしてその刺激を受けた時、楽しく思うかしんどいと思うか、何も思わないかも違いがあります。

刺激を受けて自分がよい反応であれば問題はありませんが、それが疲れや日常生活に支障がでてしまいうまくやれなかったり、その刺激がある環境で楽しくやれる人の中にいた場合、理解されないことがあったり、人としてよろしくない評価を多くの人から受けてしまうこともあるでしょう。

たとえ、そのような環境でない場合においては、よりよい状態で普通以上のことができるとしてもです。

自分にベストな環境を望んでも、手に入れられないことが多いのは生きていてどこかわかっています。なので自分が変わろう、うまくやろう、もっと何か自分を磨いていくべきと考えます。心を無にしてみたり、自分を騙してなんとか生きていこうと、おそろしく頑張ってやっと周りと歩調が合わせられているような状態かもしれません。

+++

私がインターネットを好んでやる理由のひとつに「ソウルメイトを探すため」と何度か言った記憶があります。なぜインターネットなのか?なぜソウルメイトを探そうと思っているのか?と言う理由は、ずっとなぞでしたが、(もしかして?)と思うことを見つけてきたので、それを話しましょう。

私はTEDのプレゼンを見るのが好きなのですが、その中で去年少し話題になった

スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」 | Video on TED.com

この動画が気になっていると、何度か言っていました。

この動画を見て、私は自分とよく似た人が外国にもいるんだなあと思いました。でもこんな大きな会場でスピーチをしているとか、なぞだなあ。とかきっとこの人も私とは違うのかもしれない。いちいち何か大げさだと疑っていました。ただ、ほかのスピーチのような刺激的でおもしろい内容とは違い、ずっと心にひっかかっているものであったことは事実です。

外向型・内向型傾向の人が存在している。というのは、どこか「当たり前だ」とも思っていて、自分はどちらかといえば、内向型のタイプだろうくらいに思っていました。そんなもんだ。と。それをよく考えたところで、何かを見つけるきっかけにもならないだろうとも思いました。

疑っているにもかかわらず、この動画は思い出して今日まで何度か見ました。
わりと何度も。

+++

何度か動画を見ているときに、このスピーチをしているスーザン・ケインさんの書籍があることを先日、知り買って読みました。なんとなく。私は、Quietの意味はわかりません。まだ調べてません。


Amazonで見る 内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

私は、本を読むときまずざっと全体に目を通すのですが、このときの感想は、ざっくり把握したかったり、本を読むのが好きではなかったり興味がない人にはまったくおすすめできないと思ったことです。理由は、外国の事例が細かく書かれていて、なじみのないカタカナや用語が多い、そして文字数が半端ないから。いろいろ何かが細かいです。

こんな感じの本


ただ、じっくり読むとそういうわけでもないことがわかります。ただし、本をじっくり時間をかけて読むことに苦痛に感じない人のみ。

内向的な人スゴイっていう内容でもあるので、自分がもし内向的であれば、わーい!ヤッター!という気分になったりもできます。こういうところにスポットを当てて何かを語っているらしきものに触れた記憶があまりなかったので、(えええ!?うぇええ!)と新しい刺激を受けただけかもしれませんが。

+++

私はどうやら内向的な傾向が強く、自分ではたいへんそれに困っていて、人生かけて自分でどうにかしなければならない課題であると感じ続けていました。なんとかうまくやるコツを貪欲に探し続けて、心平和に生きるコツも身につけはじめていましたが、まだまだ困っていると感じることは山積みです。

自分はさておき、もし仮に娘がそういった傾向があるなら、私はもっと切磋琢磨すべき事があるはずだということを本を読みながら感じ始めました。どうやら私の1人目の娘をじっくり観察していると、私ほど困ったことがなく平和に暮らしているように思います。むしろ私が彼女に、悪い影響を与えたりしないかというほどに、安心できる人格でした。

次に思ったのが、私は今妊娠していて、今年子どもがもう一人増えることです。この人がいったいどういう人なのかは産まれてこなければわからないので、さらに新しく人に接する立場になるため、もっと切磋琢磨するでしょう。今回はすでにすばらしい私の弟子が身近にいるので安心しています。

自分だけではなく、身近にこういった人がいて大事に思っていて、その人がどういう傾向があるのか知るにも、よい書籍ではないでしょうか。ただし、まったく違う傾向の人が読んだ場合、どう解釈するのかは、私にはわかりません。

この書籍の中で「コア・パーソナル・プロジェクト」という、”自分が重要視する仕事や、愛情を感じている人々、高く評価している事物”に従事する場合、めっちゃがんばれるみたいなことが書かれています。私の場合は、それが家族や特に娘だったり、インターネットで探し続けていたソウルメイトだったりするのかもしれませんね。

私の生態はわりと面白いので、気が向いたらそれについてもかこうかなと思います。

>>> つづく


■関連記事

失敗してもオワタではない

失敗したら人生オワタと思うタイプです。
まあこの1文だけでも、いろいろつっこめるところがありますが、もっといろいろあるので、それを書きます。

まず、「失敗したら」の部分なんですが、どの時点で自分が失敗だと解釈するかの判断がおかしいです。
それまだ失敗と判断しなくてもいいよ。という時点を失敗だと勝手に思い込んでいることがあります。この見極めが甘い場合、失敗さえしてないのに、人生オワタことになるので、超注意です。
見極めできなさ過ぎて、スーパー人生オワタ状態になるかもしれないと言う点は、もっとも気をつけないといけないですね。

つぎは、「人生オワタ」の部分なんですが、何が人生オワタなのかしっかり把握しているかということです。
犬の糞を踏んだくらいでは、そう簡単に人生オワタことにはならないのですが、それでも絶望することにしたというのは、気軽に書き込んだコメントくらいにしておきたいところ。

この二つの組み合わせが、トンデモだった場合、常に人生オワタスーパー人生オワタ体験ばかりを繰り返すので、心にとっては、よろしくないです。もっといろいろ見極めたり、思い込み部分のおかしなところを、アップデートしておく必要がありそうです。

2013年8月5日

自分の思い通りにならない

「自分の思い通りになる」と信じていたり、思い込むことは大事なことのひとつですが、よろしくないことも同時にあります。「自分の思い通りにならない」ことです。

自分の思い通りになると思い込んでいたとき、自分の思い通りにならなかった場合、どう思うでしょうか。「なんでやねん」ですが。これが、もし人に対して「こうして欲しい」と思っていたとき、相手がそうしてくれなかった場合、「どうして言った(思ってる)とおりにやってくれないのよ」という苛立ちがうまれたり、相手が悪いとか人間的にだめなやつだからと決め付けたりできます。ラッキーです。

しかし、これが自分のことだったとしましょう。
たとえば、左手の薬指を動かしたいと思っているけど、動かない。とか。まあ「なんでやねん」思いますね。ここから、どうして動かないんだよ。といらいらしたり、だめな薬指だとか、思うことも可能です。だからこうしてやろうと思うのも自然な流れかもしれません。

なんでやねん。いらいらする。と考えるのに、抜けているものがある気がします。
なんでやねん。って思うのは、単なる疑問というか、(えーなんで?)という気づいたときの状態で、その次に、気づいたからいきなりいらいらする前に、「あ、薬指動かないんだ。」というのをしみじみ味わってないです。
確認作業ができてないのに、いらいらするとか、もうちょっと考えたほうがいいんじゃないか?とも、思うわけですよ。短気すぎです。

2013年8月4日

しっくりこない世界

別に自分も相手も悪くないんだけど、自分にとってはしっくりこない世界(世界観?)みたいなのを感じたとき、これ何?って思います。

自分にとってはしっくりこない世界であって、自分にとって都合のよろしくない世界ではないのがポイントなのですが、この微妙な違いを説明するのは難しいです。

++

何を書こうかまったく考えないで書き始めたので、いきなり話が変わりますが、
「自分探しのたび」という愉快なものがあります。
私のイメージ的には、おでこにメガネがあるにもかかわらず、メガネを探して部屋中探しているような光景が目に浮かびます。結果的に、部屋にいる誰かに、「メガネ!そこにありますやん!」と言われたり、探しているうちに(あれ!?こんなところにメガネありますやん!てへぺろ!)なんていうことだと思いますが、別に部屋中探し回らなくても、考えたらわかりますやん・・・と思ったりもします。
考えればもっとおもしろい解釈もできるかもしれませんが、メガネがありません。なう。

++

前にブログを更新したのが6月なので、それからまた独自の研究?探検?探求?をしていたわけですが、そこからまたひとつ進みそうな感じで、まだまだ旅の途中。

とにかく自分にとってどんな工夫を施せば、うきうきすごせるかを考えていて、結局これかよというものに、めぐりめぐって到達してしまったりしたりしつつ、たいそう自分に都合のよい思想を考え続けています。

数ヶ月、数年前に自分が書いた文章がすでに、自分でも意味不明になっていることも多いので、なんとか何かは進んでいるのであろうと、とらえていますが、まだまだいけそうですね。

え、何を書いてるんだよって?特に何かについて書いているわけではないです。

おわり


2013年6月18日

鳴かぬなら?

晩、少々怒っていた。
残りの飯をにぎりめしにしながら、考え事をしていた。

もし、目が覚めたとき娘と会えなくなるなら、自分は何か後悔するだろう。
こう思わないように、毎日そういうことを忘れずに生きていかないといけないのにそれができない腹立たしさがさらに怒りを掻き立ててくる。
寝る。

起きる。朝である。

「デートでもしてたら?」
娘にそんなことを言われ、夫婦で出かける。
デート、安産祈願デートだ。



私「なにかある。」
夫「・・・・・・」
私「なにかでかい丸がある」
夫「・・・・・・」


大きな円


私「なんだこれは・・・(近づいて見ている)」
夫「・・・・・・(私の後ろで見ている)」
私「なんかすごく難しいな・・・」
夫「・・・おぅ、むずかしいな・・・」
私「漢字が読めない・・・あと字がふにゃふにゃで読めない・・・」
夫「・・・・・・・・・(てくてく)」
私「・・・!!やってるし!」
知らないおじさん「・・・・・・」
私「・・・!!!」

夫は知らないおじさんと一緒に、でかいこの輪をくぐりはじめた。
何をやっているのか、わからなくなってきて、私もやっておいた。
これは、一体なんだろうか。


安産祈願をすませ、歩いていると小川があった。
夫は座って川を見ている。

私は川の中に入ってみた。



じゃぶじゃぶ。
じゃぶじゃぶ。

ガウチョのすそがびしゃびしゃにぬれている。
どうでもいい。

足に何かがひっかかった。



水草だ。

水草をもって小川をすすんでいると、まき貝のようなものを発見した。



貝の殻のようなものが、石の上に並べられている。
抜け殻のようだ。

注意書きを発見した。



やっと、夫がボーっと座っている場所までたどり着いた。

私「みてーーーー草!」
夫「・・・・・・・」
私「みてーーーーーーーー貝!」
夫「それ、蛍のえさやな」
私「とったらあかんって書いてあったで!」
夫「あかんで」
私「・・・・・・」

娘よ。これが、デートの一部始終である。


夕方になる。
この日はとても夕飯が作りたくない日だった。
昨日も、夕飯が作りたくない日だった。
一昨日も、夕飯が作りたくない日だったかもしれない。

「夕飯トマトでいい?」
人に聞きたくなる。

リコーダーをどこにおいたのか忘れた娘が、
私にリコーダーを探してくれと言っている。
いやである。

探してくれと言ってくる。
いやである。

探してくれ!と言ってくる。
いやである。

家族が座って、食べ物が出てくるのを待っている。
私も座って待っている。
何も起こらない。

私は、座っていても何も起こらないことを知っている。
みんな座っている。気が狂いそうだ。


ふと、こんなことが頭にうかんだ。


鳴かぬなら?


限界だ、何も思いつかない。
つぶやいてみた。

すばらしい。
私はやる気になつた。


猫トマト。


こだま汁だ。

家族は特に何も言わずに夕飯を食べて、
ドバイの日本妻を見ていた。

こんな日があった。
気分は、普通だ。

娘に言った。
「また、ホタル見に行こう。」
娘は言った。
「そうそう、あのジングルベル~♪おもしろかったなぁ~。」
娘はニコニコしながら、おやすみ~と言って、寝に行った。

また、明日がくる。

もかり

2013年5月14日

どんなことを心に持っているのか?

私は学校の授業で歴史がめちゃくちゃ好きになった瞬間があったのですが、(なぜ歴史が好きになったのかなあ。)と、ずっとわからないでいました。
とある先生の授業を聞いていて「歴史、面白い!」と思ったのは確かです。

その社会の先生も歴史がすごく好きで先生になったと聞いていました。先生を見てて、ほんと好きなんだろうなあと私が思ったのは、先生の周辺には歴史関連のものがあったからです。
他には、私の尊敬する教授も歴史と思想に深い深い知識を持っていました。

彼らから、私が学ぶ時、私が面白いと思うに至ったポイントは、たぶん・・・

「どんなことをしたのか?」ということだけではなく、
「どんなことを心に持っているのか?」ということから、
「その心を持った人が、どんなことをして、どんな人生だったのか?」

ということを、授業で常に教えてくれていたことだと思います。

歴史の教科書に載っているのは、出来事といった年表に沿ったものでしたが、他にも参考書籍を教えてくれたり、教科書に書かれていない余談とか豆知識、彼らの考察や自分がそれについて感じたことなんかも、余談ではさんで教えてくれたことです。

先生が思いいれのある人物は、熱くなり脱線して時間オーバーになった。
なんていうこともありましたが、私はそれが一番面白くて、その出来事については興味を持ち自分で調べたりしたため特に詳しいです。


+++

私がこんな世間話をするに至った理由は、
check*padというToDo管理に使っているサービスの、モーニングリストを見たからです。

このモーニングリスト機能は、指定した時間に自分のメールにその日のToDoが1回おくられてくるのですが、「モーニングリストに名言を配信する」というユニークなサービスオプションがついていて、私はこれも毎日楽しみに見ています。

『私は人の悪口を言わないようにしている。誰についても私が知っている全ての長所を言うように努めている』(ベンジャミン・フランクリン)

最近配信されてきた、フランクリンの名言なんですが、(悪口を言わないように心がけてる昔の外国の人がいた!)というのに出会って、この人どうなったっけ!?と思いました。

そんなことから、ふと歴史の授業のことを思い出しました。

+++




2013年4月27日

自分をじわじわ褒める工夫

自分に自信がなかったり、自己評価が低いと、なんとも生きにくいことと思います。
こういう状態になっているのは、悪いことでもいいことでもないですが、不便です。

自分で自分を自己評価できない → 心モヤモヤ
人から褒められても素直に喜べない → 心モヤモヤ

不便な点は、心モヤモヤです。
モヤモヤの原因がわからない場合、だめだ~とか、このやろうとか、言動においても、それがなぞの原動力になったりして、自分にとってだけではなく、周りの人もモヤモヤさせてしまう可能性があります。
お互い様かもしれません。でも、うまくやろうと思ってもいいじゃない?

褒められて「そんなことないですよ」「私なんて」とか思ってませんか。
「嬉しい!ありがとう!」ですからね。たぶん!

「自分を褒める、自分が褒められること」
というのは、嬉しい、喜びを感じることです。
当たり前?そう思う人は帰ってください。

「素直に喜ぶ、嬉しさを感じる。そして、その気持ちを表現できる」
これをすることが、苦手だったり、出来なかったりすることもあります。
これは私のことなんですけどね。まあ、いいか!


ここまでやるのには、おそらくステップがあると予想しています。



褒められた喜びを表現できるまでのステップ


褒められても喜べないのにはいろんなことがあると思うけど、
すなおに褒められた喜びを表現できるまでのステップと予想しているもの。

はじめ 自分

まず、自分を認めていること。
それから「よくやった」「いいかんじ」と、心から自分に言えること。
自分に言って、よくやったな自分。いい感じだぞ自分。と思うこと。

これがしっかりできてないと、
この先にすすんでも突然、虚無感とかに見舞われます。

実はこれをやることが、困難だと感じられれば工夫できるんだけど、
気づかないで長いこといたりします。

+++


つぎ 自分以外

ここまできたら、
自分以外から認められていること、褒められること、評価されたこと。
これが、自分に向けられた時、やったー!うれしー!と感じるようになります。
感じたたら、それを表現します。

他者からの評価は、継続的なものとは限らないので、
自己評価が出来ていないのに、他者からの評価ばかりを欲していたら、
それがパタリとなくなってしまった場合、心が枯れたりもします。

これは、必ずしも人からの評価ばかりではないです。
それを欲っするあまりに無理をしたり、無理強いをしたりしてしまう言動が目立っていたら、おや?と思って立ち止まってみるのもいいのかも。

+++

自分で自分を認めていない場合、人から言われたことにも信じられない、素直に受け入れることが難しくなっているのかな。と、思いました。

なので、自分で個人練習を繰り返せばいいのではないか。と考えました。
それをどうするのか?なんですが・・・。

どうするのか


ネットで話題になっていた炎上気味の情報を見ているとき、たまたま目にしたのがこの情報です。(この記事は炎上とは関係ないので誤解しないよう)

脳は現実とイメージを区別しない

脳の3つの特徴が書かれていて、これどうなんだろう?と思ったけど、信じてみることにしました。
頭の中で考えたり文字にすることで影響があるんじゃないのかな?と。


③脳は人称を区別しない
 言った言葉の主語を理解しません。つまり、相手の悪口を言うと、自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなります。
反対に相手を褒めてあげると、自分が褒められたと思い、気分が良くなり自尊意識が高まります。
脳の特性を理解し、良い言葉を日常に使うようにしましょう。

自分の心の中で、なんども繰り返している言葉が、自分を苦しめている。それがたとえ人に向けた言葉ではなく自分に向けられた言葉で困っているなら、それと同じ方法で、うまくやる方法があるんだろうな。と思ったのです。

ただ、無理してやるとそれはそれで心の苦しみになると思ったので、自分にできそうな方法を考えました。と思ったら、私は地味な方法を2つ思いついていたらしく、日々やっていました。


(1)ネットのサービスに、ログインする時のパスワード

地味です。何度もログインするようなWebサービスのパスワードを、

kakkoiioretyokakko11suteki
(かっこいいおれちょうかっこいいすてき)

などにして、ログインするだけですよ。
暗いですか・・・でも、IDだと人にばれる可能性がありどんなアカウント名やねんってなるので、パスワードがいいです。パスワードって人にばれたらよろしくなさそうですから。あとたまに変更したほうがいいそうじゃないですか。

なので定期的にパスワードを変更したほうがセキュリティ面でもよいそうなので、おれちょうかっこいいことが体にしみこんだら、違う褒め言葉に変更したらいいと思います。

冗談言ってるみたいに見えるかもしれないけど、私はわりとまじめです。
名案じゃないかと思ってました。


(2)褒めたら喜んでくれる人を心からうまく褒める

自分が褒められることばかりを望んでがっかりするよりは、褒めると素直に喜ぶ人を褒めて、その反応を何度も見ることも、いいと思っています。
私の場合は、娘です。全力で喜んでくれます。
褒めても無反応な夫なんかだとなんか凹むので、娘のほうがいいです。

褒められて嬉しそうな姿を何度も見ることによって、それができるようになりました。

私「宿題を一生懸命やってたから、テストで85点もとれたね!がんばったね!」
娘「ちょぉおおおおおー嬉しい♪♪(ぴょんぴょん飛び跳ねる)」

かわいすぎです。

逆に、子供に対して怒りまくっていたら、自分が怒られている気分になってしまい、怒ったことに凹むのと、自分が怒られた気になって(おれだめだー)みたいなのが後から出てくるので、出来るだけ回数は少ないほうがよく、冷静に叱ったほうが、自分にとっても相手にも良いと思いました。


+++

いい言葉をつかいましょう!なんて言われても、
へそ曲がりなので素直に聞けない面もあるんだけど、
その通りだと思うので、人に強要したり撒き散らしたりせず
自分なりにこっそりいい言葉を使う工夫はできますね。

そんなわけで、こんなことを毎日繰り返していたら、
わりと私の心は平和になってきました。

褒めるのも好きだけど、褒められるのも好きになってきました。

2013年3月17日

自分が自分をどう評価しているのか考えるのは大事なことである


最近、私の持っている大きな謎について先にすこし進んだような気がするので途中経過を書いてみよう。

自分のことを考えるというのはどうもよくわからないことだと思っていました。わかりにくいものです。ただ、何かは見えていて(感じる)、それが見えないものだが何かを放っており、なんと言うものかわからず「個人的な問題」という言葉(私の造語)で、それを見てました。それは、気分のいいとも思えないものが多く、その人がずっと根に持っている何かです。(私にはそう見えている)

自己評価というのにフォーカスしていて、どうやら自己評価というのは、たとえば「高い・低い」と表現されるようです。この表現の場合、高いとよいように表現されていると感じました。自己評価が高いか低いか?それを自分に当てはめて考えた場合、自分を高く評価できる思考を持っていることは、その人の心にとってよいのだろうと。

そして、自己評価が低いと評価している場合、心にもんやりしたものを持っているように思います。普通の言動のように見えても(どうしてそうなんだろうか?)という表現や行動をしているのを見て疑問を持ちます。たいていは、その疑問は「?」と瞬時でわかるもので、「?→よくわかんないな→よくない評価をその人にする」という流れで処理しているようにも思います。モンヤリしている心の人にさらに、過酷だと思われる反応を返してしまうパターン。

自分で自分をよく評価できない場合や、自分以外からの評価を得たいと思う気持ちはわりとみんな持っているものだと思って話をすすめますが、心にモンヤリをずっと持っていて、自分ではもうどうしようも埋める事ができない状態であると、自分を保てていないように見えています。とにかく自分を保つためという動機でがんばり続けていつも疲れています。必死そう。

たとえば、砂漠で草を探してさまよい歩いてやっと1つ草をみつけられたと安心して疲れて寝て、起きたらまた草を探さないといけないような感じ。もっと草がいっぱい生えているところにいってもいいのに、どういうわけか砂漠をチョイスしているような感じです。そこが砂漠だというのを知らなかったり、草いっぱい生えてるところがあるのを知らなかったり、砂漠好きすぎとか、砂漠の草が最も好きとか、まあいろいろあるかと思います。草じゃなくて砂だったら腐るほどあるんじゃね?とか。

書くの、疲れました。

心モンヤリしてるわ~と感じている場合、
うまくやる方法は、自分を自分で良い評価をすることです。
そして評価する場合、自分を良い評価ができない基準で評価しないこと。
心の中でやるので、自分にいちばん都合のいい基準でいいです。誰にも迷惑をかけていません。
人からの評価を求めて良くない評価をされダメージを喰らうなら、絶対人からの評価で自分を評価してはいけないです。良い場合はいいけど、良くない場合はもっとモンヤリして辛くなります。ダメージを喰らうような状態の時は、心も焦るのでやりがちなパターンかもしれません。それでうまくいくならいいけど。うまくいってなくて、心がザワザワするなら、落ち着くんだ。辛くなることがやりたいんじゃない。方法が間違ってる。自分イイ!!これです。これをやるんです。

こういうのは「状態」です。変わります。
変わるのはいいときもあるけどよくないときもある。そんなもんです。
環境が悪いんじゃなくて、状態が悪いのかもしれないこともあるよ。

梅干は木の実なのに高いポジションを得た成功者である



梅干というのは、もともと梅の木になっていた木の実でしたが、
たらこや鮭とならんでいる、私の中で高いポジションを獲得している食べ物です。

なので、すごい。

2013年3月14日

私がブログを書いている時


私がブログを書いている時

もし 私がよくない状態ならば それは自分のために書いています

もし 私がよい状態で それでもなお書いているならば

それは人のために書いています


人のために書いているということは

自分のために書いていることと同じです

同じことをしているようにみえても

ブログで自分にとって得られるものは

人のために書いている状態のほうが 気持ちがいいものです



2013年1月16日

油断大敵でした

私はしばしば、「個人的な問題」と「都合」の関係について考え事をします。
こんなことを考えてるので、いろいろ迷宮入りすることも多いですよね!


2行書いていきなり疲れました。
世間話でもさせてくだされ。私の世間話長いよ。

子どもたちは、私にくらべると大きさが小さい人間なので、
心の中には色んなものが詰まっていてかわいいのです。

この前、何人か年が違う子たちが遊んでいました。
子どもは集まって遊んでいると、まあ、ちょっとした口論やらぶつかりあいがあります。
私は、そういうのを見ていて「まあ!いけない」と思い、間に入ろうと思った時期もありました。これは「自然なことでもあるよなあ。」と思いとどまり何も言わずに見守ってました。

小学生低学年くらいには学校でも相手のことを考えるということを学んでいくので、その知識もあって、ちょっと冷静になり相手のことを考えてできるだけよい行動をしようと考えられます。こういう側面と、そういうことを考えないで自分のありのままの感情でいる状態が、でたりひっこんだりします。

ぶつかりあいがはじまり、誰かが私に助けを求めてきたとき、ちょいちょいお互いなんとかうまくやるように考えてごらんと言うと、しばし考えて、すぐにまた一緒に遊びはじめます。でも、すぐに同じこと起こるのw
私は、何回けんかになんねん!と思いつつも、これはぶつかり稽古みたいなものだということで、見てます。

私は、子どもがよい行動をしようと意識している様子も好きで、意識していることを褒めますが、褒められるために過度に無理をしている違和感が個人的にきらいなので、それは評価できません。


ここで、はじめの話に戻ります。
「個人的な問題」と「都合」の関係についてですよね。
気持ちっていうどうにでも考えられ不確かなものがあります。
本人さえもわからないといういわくつきのやつ。

これ、私の3点セット。

(1)褒められたいと言う気持ち
(2)褒めてほしいという都合
(3)褒められなければいけない個人的な問題

褒められなければいけない個人的な問題のための褒めてほしいという都合に、
あわせることがよいことなのか?考えます。

褒められなければいけない個人的な問題にまつわる気持ちは守るものである。
と判断すれば、褒めます。

見ず知らずの人にまで、これほどまで親身になる余裕がないときがほとんどですが、考えてはいます。

ややこしくなった。

個人的な問題にまつわる気持ちが守るべき気持ちであると判断した場合に守ります。

それは、私の個人的な問題にまるわる気持ちの都合です。
気持ちを守ることで守られたい気持ちの現れであり、軽視していることではないということですが、なんとも納得できないようなもんやりしたものもあるということです。
○×で判断しているように見えて、その判断基準が思いもよらずもんやりした側面があるということです。

(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合

で判断できることが気持ちよく進められることと思いますが、
あれ?何か妙な感じがするぞというときは、3つありまして、

(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合
(3)★★という個人的な問題

都合をあわせてほしい側にとっては、一時的に都合が満たされるので、個人的な問題は解決しませんが、気分はよいです。でも、これは個人的な問題なので、都合でどうにもなりません。
都合をあわせる側にとっては、個人的な問題を踏まえ、都合に合わせる情熱を持つことができるのか!と私は考えたりするわけです。

子どもが親を見るときも同じです。
親の個人的な問題による都合に、自分をあわせなければいけないことがあると、
あれ?モヤッ!とする原因であることが多いです。

ここには個人的な問題領域がないだろうなと油断するような場合もあり、子どもは親に対してかなりの油断している状態なので、油断大敵ですよと、言うことが大人になってわかりました。

油断大敵状態が理解できずに苦しんだ期間があるのですが、気づいた時に、もやっとしたことが晴れてすっきりしたわけです。単純に言えばこう!というのは何度も見ていたはずなのに、どんなけ自分、考えてるねん・・・と、自分の思考のカオス状態に、呆れるしかありません。


長くなってしまうのですが、なかなか理解できなくてね・・・。
もうちょいうまくまとまるといいですけどね。今日は出来なかったみたいです。

何を言っているのかわからない方のために簡単にまとめれば、
恥ずかしいことを書いているということです。

下手の長談義にお付き合いいただき、ありがとう。

2013年1月8日

前の記事の続き。”言葉”ではなく”気持ち”

前の記事の続き。

この記事を書いた後に、残念というか複雑な気分になっていました。

娘のこの発言は、私に向かって対話を強く求めて話されたものではない。と、その時は感じましたが、私にとてつもない衝撃をあたえた言葉です。

やけにひっかかっていたので、考えていました。


何が、残念だったか。

この残念な気分というか、なんでしょうね。
この気持ちは、なんとも言葉にしにくい感じなのですが。

普段から私のアンテナが弱かった事に対する残念さみたいな感じで、猛烈に反省している気持ち(というと、綺麗に聞こえるので、言い直すと)、なんてこった!私はいったいなんてことをしてしまったんだ!でしょうか。


娘が言った言葉には、おそらくこれから彼女にとって大事に育て、守っていかなければいけない何かがあるとさっしました。

それに対して、私は、何もしなかったことに落胆しています。
簡単に言うと凹んでます。


娘が言った事は自分の気持ちを言語化することができているので、強い想いがあるものだと思いました。私はそれを”気持ち”ではなく”言葉”として受け取っていました。
無礼な事をしていた。本来ならば戒められるべきことなんですが、それを言わない相手に、なんて酷いことをしていたのだと思うと、猛省しています。

私は、自分の気持ちを表現することは、すごい事である。と思っていて、表現する側と受け取る側の真剣さが欠けると、同じものが見られないです。
同じものがなぜみたいのかって?相手のことを大事に思っているからですよ。

なんてこった。ほんとに自分にガッカリした。ほんとにガッカリした。
何で私はこんなにアホなんだろうか。アホのくせになんて怠惰なんだ。


こういったことは、何度も娘から受け取っていたのですが、
娘は諦めずに私に発信してくれました。ほんとに、ネ申だと思いました。

お母さんはね、やっとそれがわかったよ。

昔は、寒くても何も言わないで鼻水たらしながら笑顔だったし、寒くてもパンイチだったりしたのに、寒いことを「さむい」と言って不機嫌な顔をするようになったり、寒いので布団の中からなかなかでてこなかったりするようになり、怠惰をしていたようです。怠慢ですよ。怠慢。

人を育てるということは長い道のり。
歩みをゆるめることはあっても、とまってはいけないと思いました。

毎日成長しているんだなあ。と、思うんです。
大人になってもずっと歩いているんだな。と、思うんです。


この日、私は娘と一緒に太鼓の達人を9曲も叩きました。
二人で600円も使ったわよ。

娘がでかける時に言っていた事

娘がでかける前にこんな事を言っていました。
それを聞いた私は驚きました。

玄関でブーツを履きながら娘が


「このブーツ気にいっている!!!

 このズボンも気にいってる!!!

 この服も気にいってる!!!

 このコートも気にいってる!!!

 ぜーんぜーんぶ気にいってる!!!」


私はこれを聞いて、

(お~。気にいってくれてよかったな~。)

と、心の中で思いながら
横で靴を履いていました。


娘は私や夫や親類が娘に買った衣類を着ていて、
靴を履きながら、自分が今、身につけている、
靴、ズボン、服、コートの話を、しているようです。

どうやら私に話かけているようでもないので、
黙って聞いていると、娘は続けてこんな事を言いました。


「みんなが買ってくれた!

 みんなが買ってくれた!

 ぜーんぶぜんぶ気にいっている!

 みんなが私に買ってくれたー!」


そう言って娘は
何もなかったかのように玄関を出ていきました。


私はこれを聞いて
なぜか泣きそうになりました。

2013年1月5日

2013年の目標

この時期になると、今年の目標や抱負が語られるのですが。

この時期の私の心理状態についてつづりたいと思います。
おそらく友達がいなくなるんじゃないかと思うような心理状態です。

まず、私以外の人は、なぜ目標とか抱負が決められるのかがわからない。
きっと、すごく真剣に考えて、目指すものがあり、志高く、すごい決意で何かを決めていると思うので、私はそれが出来ないので、なんてダメな人生を送っているのだろうか。などという心境になります。

でも、ここで決めておかないと1年間呪われると思い、私だって無理に何かを決めようとします。
考えすぎて、最終的に、自分が何を考えているのかわからないくらいまで考えてしまい、2キロくらい痩せます。どんな修行なんだろうか。もう、この時点でダメなやつだな!自分!とか思うわけです。

そして、もしかして、私みたいに特に目標を決めずに生きてる人もいるはずだ!と思うんですが、そういうタイプの人がもし仮にいるとしても、目標なんて決めてません!適当です!と、声高々に言ってる人に、残念ながら出会いません。

私はくらいのでインターネットで目標を決めてない人を探してみたりするのですが、決めて達成する意識がある人の情報のほうが多く見つかるので、焦りはじめます。目標決めてない終わった。という気分になり、自分は意識が低すぎるのかもしれないとか思いはじめて心理的に追い詰められてきます。そして、1月半ばくらいになると、目標が決まらない自分に対して、嫌気がさしはじめますが、2月くらいになると、その話題も目にしなくなるので、元気になります。

と言った、あんまり自分によくないことを気にして生きるのは、
私がかわいそうなので、今年はもうやめました。

目標を書いておけば、それが叶いやすいみたいなことをちょっと信じそうになりましたが、無理に自分を追い詰めて決めたでまかせのことを書いておいても、叶わないんです。

心の奥底にある、本気で本音の自分の気持ちを言語化することは、私にはすごく難しいみたいです。アホなんだろうな。

だから、私は、「この感じを忘れない。」と、心に留めて、
1年間、家族と自分と私が好きな人のために、頑張ります。

まあ、こんな感じで生きていくというのも逃げだし、無礼なので、
私は、何をやったのか。」というのを、振り返りながら、その感じからズレていないか、確認しながら、今年最後に、「この感じ」を、言葉にしようと、思います。

あとは、やりたいことリストを、娘と一緒に作って、今年1年楽しむんだー。



無印良品の土鍋で、瀬戸内海の真鯛の一夜干の鯛飯を作った

2013年1月2日

消費税が10%になったらどうなると思いますか?

「消費税が10%になったらどうなると思いますか?」
と、いう質問をされた時に、どんな事を考えるでしょうか。

この記事では、どうなるかって言う事を書きませんが、
自分にこんな質問をしたとき、自分の回答がないことに愕然としています。

すらすら答える事が出来たり、思考したりする事が出来るということは、
それだけで素晴らしい事と思います。

では、
「なぜ考える事が出来ないのか?」
という質問に変えてみましょう。

いろんな言い訳が頭に浮かびました。

質問や疑問について考えられないというのは、
とても不幸なことと思います。

それを考えるために、自分がどうすればいいのか?
というのが、わかるだけでも、よいと思います。

一人で何もかもゼロから考えるのは難しいです。
でも、誰かの考えた事を聞き、それをヒントに考えていくこともできます。

+++

学生のころ、よく言っていたのが、「わからないことすらわからない。」
わからないので、わからなさすぎて、わからないことすらわからない事だけがわかった。という、現象です。これがわかったことで、まあひとつステップアップしたのかな。とか思いました。

そのあとは「これのこれについてわからない。」という状態になります。
このときが、いちばん楽しい気もします。人にわからない事を、教えてもらうこともできるんです。わかってないけどちょっとわかっている状態って、楽しいですね。

どんどんここから道が見えてきて、こうじゃないのか?こういうことじゃないのか?と、最終地点を目指すんですが、これがまた大変。どんどんどん道が現れ、結局、めんどくさいから、これでいいんじゃないのか?くらいで妥協するくらいまでになります。
同じくらいの思考レベルに達している人がどう考えているのか?と言うのを聞いてみたくなります。
う~ん、さすがだ。とか、思ったりします。

最終的に私の中では、私はこういう理由で、こう思っている(考えている)と決まればだいたい満足できるくらいになりますが、きっとまだまだだろうなと思っています。

2013年1月1日

神様にそなえてある干し柿の種を踏んだ・・・とか・・・

あけましておめでとうございます。
生きてますか?

さて、年の初めに意識の高い記事が多くてしんどくなってきたので、私の昔話でもしてお茶を濁そうと思っています。

何を話そうかなあ。
そうだ、そうだ、あれにしよう。

私の実家は般若心経を言ったりするタイプの家だったので、なぞの風習みたいなのがいろいろありました。その話でもしようか。母親の代で時代も変わったみたいで、あまり私には影響を与えなかったようにも思うんですが、私はばーちゃん&ひーばーちゃんにひっついていたので、わりといろいろ古風な慣習を受け継いでいます。ニュータイプですね。

夫は私のそういうのを聞いて、鼻で笑ったりするので、憤慨するんですが、まあいいです。


これは、笑える話。
正月にやってはいけないこと。と言うのを、子どものころに教わりました。
その中に「神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら足にイボみたいなのができて、1年間不幸になる」(と、私が解釈していた)ものがありました。

子どものころの私は、こう思っていました。
(かみさんの干し柿の種とか落ちて無いし、わざわざ踏むとか絶対無い)と。

わかりますでしょう。
踏んでしもうたわけですよ!私!!

足の裏になにかひっついている・・・種や・・・!
この種は、あいつの種やんけ!!!

無駄に植物の知識があるため、干し柿用の種と、剥いて食べる柿の種のちがいを知っていた!!!

ここで、私は思い出しました。

神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・

(´・ω・`)・・・やばい


~ここから冬休みの間、絶望に浸っていた~

あまりにも私の元気がないので、ばーちゃんが、さりげなく何かあったのか聞いてきました。言いませんでした。
だって、神様にそなえてある干し柿の種を踏んだ・・・とか・・・(´・ω・`)・・・やばすぎる・・・


でも、あまりにも苦悩しすぎて、ばーちゃんに聞きました。

私「かみさんの、かきのたね踏んだら、あかんの?」
ばーちゃん「あれ踏んだらイボできるじょ~」

・・・(´・ω・`)ショックだ・・・やばい

またここから数日間苦悩して、別の日に、ばーちゃんに聞きました。

私「かみさんの、かきのたね踏んだら、どうしたらいいの?」
ばーちゃん「しょうがない。なんもならん。」

 ( 」´0`)」しょうがないってーー

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ (´・ω・`)なんもならんて?セーフ?

というわけで、私は、もういいやと思い、
かきの種の呪いをたまに思い出し怯えながら1年間過ごしました。


私がこのとき学んだのは、
何か人がテキトーに決めてあったり、言ってることは気にしたらしぬ。です。
1日3食食べるというのも、ずっと疑っています。

なので、自分に都合のいいことだけは信じるとよいと思いました。
おみくじで、大凶を引いて絶望できるなら、おみくじはひかなくていいです。

そんなわけで、私は正月にぜったい干し柿を買いません。

今年もよろしくお願いします。

もかり