私はしばしば、「個人的な問題」と「都合」の関係について考え事をします。
こんなことを考えてるので、いろいろ迷宮入りすることも多いですよね!
2行書いていきなり疲れました。
世間話でもさせてくだされ。私の世間話長いよ。
子どもたちは、私にくらべると大きさが小さい人間なので、
心の中には色んなものが詰まっていてかわいいのです。
この前、何人か年が違う子たちが遊んでいました。
子どもは集まって遊んでいると、まあ、ちょっとした口論やらぶつかりあいがあります。
私は、そういうのを見ていて「まあ!いけない」と思い、間に入ろうと思った時期もありました。これは「自然なことでもあるよなあ。」と思いとどまり何も言わずに見守ってました。
小学生低学年くらいには学校でも相手のことを考えるということを学んでいくので、その知識もあって、ちょっと冷静になり相手のことを考えてできるだけよい行動をしようと考えられます。こういう側面と、そういうことを考えないで自分のありのままの感情でいる状態が、でたりひっこんだりします。
ぶつかりあいがはじまり、誰かが私に助けを求めてきたとき、ちょいちょいお互いなんとかうまくやるように考えてごらんと言うと、しばし考えて、すぐにまた一緒に遊びはじめます。でも、すぐに同じこと起こるのw
私は、何回けんかになんねん!と思いつつも、これはぶつかり稽古みたいなものだということで、見てます。
私は、子どもがよい行動をしようと意識している様子も好きで、意識していることを褒めますが、褒められるために過度に無理をしている違和感が個人的にきらいなので、それは評価できません。
ここで、はじめの話に戻ります。
「個人的な問題」と「都合」の関係についてですよね。
気持ちっていうどうにでも考えられ不確かなものがあります。
本人さえもわからないといういわくつきのやつ。
これ、私の3点セット。
(1)褒められたいと言う気持ち
(2)褒めてほしいという都合
(3)褒められなければいけない個人的な問題
褒められなければいけない個人的な問題のための褒めてほしいという都合に、
あわせることがよいことなのか?考えます。
褒められなければいけない個人的な問題にまつわる気持ちは守るものである。
と判断すれば、褒めます。
見ず知らずの人にまで、これほどまで親身になる余裕がないときがほとんどですが、考えてはいます。
ややこしくなった。
個人的な問題にまつわる気持ちが守るべき気持ちであると判断した場合に守ります。
それは、私の個人的な問題にまるわる気持ちの都合です。
気持ちを守ることで守られたい気持ちの現れであり、軽視していることではないということですが、なんとも納得できないようなもんやりしたものもあるということです。
○×で判断しているように見えて、その判断基準が思いもよらずもんやりした側面があるということです。
(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合
で判断できることが気持ちよく進められることと思いますが、
あれ?何か妙な感じがするぞというときは、3つありまして、
(1)◆◆と言う気持ち
(2)◇◇という都合
(3)★★という個人的な問題
都合をあわせてほしい側にとっては、一時的に都合が満たされるので、個人的な問題は解決しませんが、気分はよいです。でも、これは個人的な問題なので、都合でどうにもなりません。
都合をあわせる側にとっては、個人的な問題を踏まえ、都合に合わせる情熱を持つことができるのか!と私は考えたりするわけです。
子どもが親を見るときも同じです。
親の個人的な問題による都合に、自分をあわせなければいけないことがあると、
あれ?モヤッ!とする原因であることが多いです。
ここには個人的な問題領域がないだろうなと油断するような場合もあり、子どもは親に対してかなりの油断している状態なので、油断大敵ですよと、言うことが大人になってわかりました。
油断大敵状態が理解できずに苦しんだ期間があるのですが、気づいた時に、もやっとしたことが晴れてすっきりしたわけです。単純に言えばこう!というのは何度も見ていたはずなのに、どんなけ自分、考えてるねん・・・と、自分の思考のカオス状態に、呆れるしかありません。
長くなってしまうのですが、なかなか理解できなくてね・・・。
もうちょいうまくまとまるといいですけどね。今日は出来なかったみたいです。
何を言っているのかわからない方のために簡単にまとめれば、
恥ずかしいことを書いているということです。
下手の長談義にお付き合いいただき、ありがとう。
2013年1月8日
前の記事の続き。”言葉”ではなく”気持ち”
この記事を投稿したのは、
e34r
前の記事の続き。
この記事を書いた後に、残念というか複雑な気分になっていました。
娘のこの発言は、私に向かって対話を強く求めて話されたものではない。と、その時は感じましたが、私にとてつもない衝撃をあたえた言葉です。
やけにひっかかっていたので、考えていました。
何が、残念だったか。
この残念な気分というか、なんでしょうね。
この気持ちは、なんとも言葉にしにくい感じなのですが。
普段から私のアンテナが弱かった事に対する残念さみたいな感じで、猛烈に反省している気持ち(というと、綺麗に聞こえるので、言い直すと)、なんてこった!私はいったいなんてことをしてしまったんだ!でしょうか。
娘が言った言葉には、おそらくこれから彼女にとって大事に育て、守っていかなければいけない何かがあるとさっしました。
それに対して、私は、何もしなかったことに落胆しています。
簡単に言うと凹んでます。
娘が言った事は自分の気持ちを言語化することができているので、強い想いがあるものだと思いました。私はそれを”気持ち”ではなく”言葉”として受け取っていました。
無礼な事をしていた。本来ならば戒められるべきことなんですが、それを言わない相手に、なんて酷いことをしていたのだと思うと、猛省しています。
私は、自分の気持ちを表現することは、すごい事である。と思っていて、表現する側と受け取る側の真剣さが欠けると、同じものが見られないです。
同じものがなぜみたいのかって?相手のことを大事に思っているからですよ。
なんてこった。ほんとに自分にガッカリした。ほんとにガッカリした。
何で私はこんなにアホなんだろうか。アホのくせになんて怠惰なんだ。
こういったことは、何度も娘から受け取っていたのですが、
娘は諦めずに私に発信してくれました。ほんとに、ネ申だと思いました。
お母さんはね、やっとそれがわかったよ。
昔は、寒くても何も言わないで鼻水たらしながら笑顔だったし、寒くてもパンイチだったりしたのに、寒いことを「さむい」と言って不機嫌な顔をするようになったり、寒いので布団の中からなかなかでてこなかったりするようになり、怠惰をしていたようです。怠慢ですよ。怠慢。
人を育てるということは長い道のり。
歩みをゆるめることはあっても、とまってはいけないと思いました。
毎日成長しているんだなあ。と、思うんです。
大人になってもずっと歩いているんだな。と、思うんです。
この日、私は娘と一緒に太鼓の達人を9曲も叩きました。
二人で600円も使ったわよ。
この記事を書いた後に、残念というか複雑な気分になっていました。
娘のこの発言は、私に向かって対話を強く求めて話されたものではない。と、その時は感じましたが、私にとてつもない衝撃をあたえた言葉です。
やけにひっかかっていたので、考えていました。
何が、残念だったか。
この残念な気分というか、なんでしょうね。
この気持ちは、なんとも言葉にしにくい感じなのですが。
普段から私のアンテナが弱かった事に対する残念さみたいな感じで、猛烈に反省している気持ち(というと、綺麗に聞こえるので、言い直すと)、なんてこった!私はいったいなんてことをしてしまったんだ!でしょうか。
娘が言った言葉には、おそらくこれから彼女にとって大事に育て、守っていかなければいけない何かがあるとさっしました。
それに対して、私は、何もしなかったことに落胆しています。
簡単に言うと凹んでます。
娘が言った事は自分の気持ちを言語化することができているので、強い想いがあるものだと思いました。私はそれを”気持ち”ではなく”言葉”として受け取っていました。
無礼な事をしていた。本来ならば戒められるべきことなんですが、それを言わない相手に、なんて酷いことをしていたのだと思うと、猛省しています。
私は、自分の気持ちを表現することは、すごい事である。と思っていて、表現する側と受け取る側の真剣さが欠けると、同じものが見られないです。
同じものがなぜみたいのかって?相手のことを大事に思っているからですよ。
なんてこった。ほんとに自分にガッカリした。ほんとにガッカリした。
何で私はこんなにアホなんだろうか。アホのくせになんて怠惰なんだ。
こういったことは、何度も娘から受け取っていたのですが、
娘は諦めずに私に発信してくれました。ほんとに、ネ申だと思いました。
お母さんはね、やっとそれがわかったよ。
昔は、寒くても何も言わないで鼻水たらしながら笑顔だったし、寒くてもパンイチだったりしたのに、寒いことを「さむい」と言って不機嫌な顔をするようになったり、寒いので布団の中からなかなかでてこなかったりするようになり、怠惰をしていたようです。怠慢ですよ。怠慢。
人を育てるということは長い道のり。
歩みをゆるめることはあっても、とまってはいけないと思いました。
毎日成長しているんだなあ。と、思うんです。
大人になってもずっと歩いているんだな。と、思うんです。
この日、私は娘と一緒に太鼓の達人を9曲も叩きました。
二人で600円も使ったわよ。
娘がでかける時に言っていた事
この記事を投稿したのは、
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娘がでかける前にこんな事を言っていました。
それを聞いた私は驚きました。
玄関でブーツを履きながら娘が
「このブーツ気にいっている!!!
このズボンも気にいってる!!!
この服も気にいってる!!!
このコートも気にいってる!!!
ぜーんぜーんぶ気にいってる!!!」
私はこれを聞いて、
(お~。気にいってくれてよかったな~。)
と、心の中で思いながら
横で靴を履いていました。
娘は私や夫や親類が娘に買った衣類を着ていて、
靴を履きながら、自分が今、身につけている、
靴、ズボン、服、コートの話を、しているようです。
どうやら私に話かけているようでもないので、
黙って聞いていると、娘は続けてこんな事を言いました。
「みんなが買ってくれた!
みんなが買ってくれた!
ぜーんぶぜんぶ気にいっている!
みんなが私に買ってくれたー!」
そう言って娘は
何もなかったかのように玄関を出ていきました。
私はこれを聞いて
なぜか泣きそうになりました。
それを聞いた私は驚きました。
玄関でブーツを履きながら娘が
「このブーツ気にいっている!!!
このズボンも気にいってる!!!
この服も気にいってる!!!
このコートも気にいってる!!!
ぜーんぜーんぶ気にいってる!!!」
私はこれを聞いて、
(お~。気にいってくれてよかったな~。)
と、心の中で思いながら
横で靴を履いていました。
娘は私や夫や親類が娘に買った衣類を着ていて、
靴を履きながら、自分が今、身につけている、
靴、ズボン、服、コートの話を、しているようです。
どうやら私に話かけているようでもないので、
黙って聞いていると、娘は続けてこんな事を言いました。
「みんなが買ってくれた!
みんなが買ってくれた!
ぜーんぶぜんぶ気にいっている!
みんなが私に買ってくれたー!」
そう言って娘は
何もなかったかのように玄関を出ていきました。
私はこれを聞いて
なぜか泣きそうになりました。
2013年1月5日
2013年の目標
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この時期になると、今年の目標や抱負が語られるのですが。
この時期の私の心理状態についてつづりたいと思います。
おそらく友達がいなくなるんじゃないかと思うような心理状態です。
まず、私以外の人は、なぜ目標とか抱負が決められるのかがわからない。
きっと、すごく真剣に考えて、目指すものがあり、志高く、すごい決意で何かを決めていると思うので、私はそれが出来ないので、なんてダメな人生を送っているのだろうか。などという心境になります。
でも、ここで決めておかないと1年間呪われると思い、私だって無理に何かを決めようとします。
考えすぎて、最終的に、自分が何を考えているのかわからないくらいまで考えてしまい、2キロくらい痩せます。どんな修行なんだろうか。もう、この時点でダメなやつだな!自分!とか思うわけです。
そして、もしかして、私みたいに特に目標を決めずに生きてる人もいるはずだ!と思うんですが、そういうタイプの人がもし仮にいるとしても、目標なんて決めてません!適当です!と、声高々に言ってる人に、残念ながら出会いません。
私はくらいのでインターネットで目標を決めてない人を探してみたりするのですが、決めて達成する意識がある人の情報のほうが多く見つかるので、焦りはじめます。目標決めてない終わった。という気分になり、自分は意識が低すぎるのかもしれないとか思いはじめて心理的に追い詰められてきます。そして、1月半ばくらいになると、目標が決まらない自分に対して、嫌気がさしはじめますが、2月くらいになると、その話題も目にしなくなるので、元気になります。
と言った、あんまり自分によくないことを気にして生きるのは、
私がかわいそうなので、今年はもうやめました。
目標を書いておけば、それが叶いやすいみたいなことをちょっと信じそうになりましたが、無理に自分を追い詰めて決めたでまかせのことを書いておいても、叶わないんです。
心の奥底にある、本気で本音の自分の気持ちを言語化することは、私にはすごく難しいみたいです。アホなんだろうな。
だから、私は、「この感じを忘れない。」と、心に留めて、
1年間、家族と自分と私が好きな人のために、頑張ります。
まあ、こんな感じで生きていくというのも逃げだし、無礼なので、
「私は、何をやったのか。」というのを、振り返りながら、その感じからズレていないか、確認しながら、今年最後に、「この感じ」を、言葉にしようと、思います。
あとは、やりたいことリストを、娘と一緒に作って、今年1年楽しむんだー。
この時期の私の心理状態についてつづりたいと思います。
おそらく友達がいなくなるんじゃないかと思うような心理状態です。
まず、私以外の人は、なぜ目標とか抱負が決められるのかがわからない。
きっと、すごく真剣に考えて、目指すものがあり、志高く、すごい決意で何かを決めていると思うので、私はそれが出来ないので、なんてダメな人生を送っているのだろうか。などという心境になります。
でも、ここで決めておかないと1年間呪われると思い、私だって無理に何かを決めようとします。
考えすぎて、最終的に、自分が何を考えているのかわからないくらいまで考えてしまい、2キロくらい痩せます。どんな修行なんだろうか。もう、この時点でダメなやつだな!自分!とか思うわけです。
そして、もしかして、私みたいに特に目標を決めずに生きてる人もいるはずだ!と思うんですが、そういうタイプの人がもし仮にいるとしても、目標なんて決めてません!適当です!と、声高々に言ってる人に、残念ながら出会いません。
私はくらいのでインターネットで目標を決めてない人を探してみたりするのですが、決めて達成する意識がある人の情報のほうが多く見つかるので、焦りはじめます。目標決めてない終わった。という気分になり、自分は意識が低すぎるのかもしれないとか思いはじめて心理的に追い詰められてきます。そして、1月半ばくらいになると、目標が決まらない自分に対して、嫌気がさしはじめますが、2月くらいになると、その話題も目にしなくなるので、元気になります。
と言った、あんまり自分によくないことを気にして生きるのは、
私がかわいそうなので、今年はもうやめました。
目標を書いておけば、それが叶いやすいみたいなことをちょっと信じそうになりましたが、無理に自分を追い詰めて決めたでまかせのことを書いておいても、叶わないんです。
心の奥底にある、本気で本音の自分の気持ちを言語化することは、私にはすごく難しいみたいです。アホなんだろうな。
だから、私は、「この感じを忘れない。」と、心に留めて、
1年間、家族と自分と私が好きな人のために、頑張ります。
まあ、こんな感じで生きていくというのも逃げだし、無礼なので、
「私は、何をやったのか。」というのを、振り返りながら、その感じからズレていないか、確認しながら、今年最後に、「この感じ」を、言葉にしようと、思います。
あとは、やりたいことリストを、娘と一緒に作って、今年1年楽しむんだー。
2013年1月2日
消費税が10%になったらどうなると思いますか?
この記事を投稿したのは、
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「消費税が10%になったらどうなると思いますか?」
と、いう質問をされた時に、どんな事を考えるでしょうか。
この記事では、どうなるかって言う事を書きませんが、
自分にこんな質問をしたとき、自分の回答がないことに愕然としています。
すらすら答える事が出来たり、思考したりする事が出来るということは、
それだけで素晴らしい事と思います。
では、
「なぜ考える事が出来ないのか?」
という質問に変えてみましょう。
いろんな言い訳が頭に浮かびました。
質問や疑問について考えられないというのは、
とても不幸なことと思います。
それを考えるために、自分がどうすればいいのか?
というのが、わかるだけでも、よいと思います。
一人で何もかもゼロから考えるのは難しいです。
でも、誰かの考えた事を聞き、それをヒントに考えていくこともできます。
+++
学生のころ、よく言っていたのが、「わからないことすらわからない。」
わからないので、わからなさすぎて、わからないことすらわからない事だけがわかった。という、現象です。これがわかったことで、まあひとつステップアップしたのかな。とか思いました。
そのあとは「これのこれについてわからない。」という状態になります。
このときが、いちばん楽しい気もします。人にわからない事を、教えてもらうこともできるんです。わかってないけどちょっとわかっている状態って、楽しいですね。
どんどんここから道が見えてきて、こうじゃないのか?こういうことじゃないのか?と、最終地点を目指すんですが、これがまた大変。どんどんどん道が現れ、結局、めんどくさいから、これでいいんじゃないのか?くらいで妥協するくらいまでになります。
同じくらいの思考レベルに達している人がどう考えているのか?と言うのを聞いてみたくなります。
う~ん、さすがだ。とか、思ったりします。
最終的に私の中では、私はこういう理由で、こう思っている(考えている)と決まればだいたい満足できるくらいになりますが、きっとまだまだだろうなと思っています。
と、いう質問をされた時に、どんな事を考えるでしょうか。
この記事では、どうなるかって言う事を書きませんが、
自分にこんな質問をしたとき、自分の回答がないことに愕然としています。
すらすら答える事が出来たり、思考したりする事が出来るということは、
それだけで素晴らしい事と思います。
では、
「なぜ考える事が出来ないのか?」
という質問に変えてみましょう。
いろんな言い訳が頭に浮かびました。
質問や疑問について考えられないというのは、
とても不幸なことと思います。
それを考えるために、自分がどうすればいいのか?
というのが、わかるだけでも、よいと思います。
一人で何もかもゼロから考えるのは難しいです。
でも、誰かの考えた事を聞き、それをヒントに考えていくこともできます。
+++
学生のころ、よく言っていたのが、「わからないことすらわからない。」
わからないので、わからなさすぎて、わからないことすらわからない事だけがわかった。という、現象です。これがわかったことで、まあひとつステップアップしたのかな。とか思いました。
そのあとは「これのこれについてわからない。」という状態になります。
このときが、いちばん楽しい気もします。人にわからない事を、教えてもらうこともできるんです。わかってないけどちょっとわかっている状態って、楽しいですね。
どんどんここから道が見えてきて、こうじゃないのか?こういうことじゃないのか?と、最終地点を目指すんですが、これがまた大変。どんどんどん道が現れ、結局、めんどくさいから、これでいいんじゃないのか?くらいで妥協するくらいまでになります。
同じくらいの思考レベルに達している人がどう考えているのか?と言うのを聞いてみたくなります。
う~ん、さすがだ。とか、思ったりします。
最終的に私の中では、私はこういう理由で、こう思っている(考えている)と決まればだいたい満足できるくらいになりますが、きっとまだまだだろうなと思っています。
2013年1月1日
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだ・・・とか・・・
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e34r
あけましておめでとうございます。
生きてますか?
さて、年の初めに意識の高い記事が多くてしんどくなってきたので、私の昔話でもしてお茶を濁そうと思っています。
何を話そうかなあ。
そうだ、そうだ、あれにしよう。
私の実家は般若心経を言ったりするタイプの家だったので、なぞの風習みたいなのがいろいろありました。その話でもしようか。母親の代で時代も変わったみたいで、あまり私には影響を与えなかったようにも思うんですが、私はばーちゃん&ひーばーちゃんにひっついていたので、わりといろいろ古風な慣習を受け継いでいます。ニュータイプですね。
夫は私のそういうのを聞いて、鼻で笑ったりするので、憤慨するんですが、まあいいです。
これは、笑える話。
正月にやってはいけないこと。と言うのを、子どものころに教わりました。
その中に「神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら足にイボみたいなのができて、1年間不幸になる」(と、私が解釈していた)ものがありました。
子どものころの私は、こう思っていました。
(かみさんの干し柿の種とか落ちて無いし、わざわざ踏むとか絶対無い)と。
わかりますでしょう。
踏んでしもうたわけですよ!私!!
足の裏になにかひっついている・・・種や・・・!
この種は、あいつの種やんけ!!!
無駄に植物の知識があるため、干し柿用の種と、剥いて食べる柿の種のちがいを知っていた!!!
ここで、私は思い出しました。
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
(´・ω・`)・・・やばい
~ここから冬休みの間、絶望に浸っていた~
あまりにも私の元気がないので、ばーちゃんが、さりげなく何かあったのか聞いてきました。言いませんでした。
だって、神様にそなえてある干し柿の種を踏んだ・・・とか・・・(´・ω・`)・・・やばすぎる・・・
でも、あまりにも苦悩しすぎて、ばーちゃんに聞きました。
私「かみさんの、かきのたね踏んだら、あかんの?」
ばーちゃん「あれ踏んだらイボできるじょ~」
・・・(´・ω・`)ショックだ・・・やばい
またここから数日間苦悩して、別の日に、ばーちゃんに聞きました。
私「かみさんの、かきのたね踏んだら、どうしたらいいの?」
ばーちゃん「しょうがない。なんもならん。」
( 」´0`)」しょうがないってーー
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ (´・ω・`)なんもならんて?セーフ?
というわけで、私は、もういいやと思い、
かきの種の呪いをたまに思い出し怯えながら1年間過ごしました。
私がこのとき学んだのは、
何か人がテキトーに決めてあったり、言ってることは気にしたらしぬ。です。
1日3食食べるというのも、ずっと疑っています。
なので、自分に都合のいいことだけは信じるとよいと思いました。
おみくじで、大凶を引いて絶望できるなら、おみくじはひかなくていいです。
そんなわけで、私は正月にぜったい干し柿を買いません。
今年もよろしくお願いします。
もかり
生きてますか?
さて、年の初めに意識の高い記事が多くてしんどくなってきたので、私の昔話でもしてお茶を濁そうと思っています。
何を話そうかなあ。
そうだ、そうだ、あれにしよう。
私の実家は般若心経を言ったりするタイプの家だったので、なぞの風習みたいなのがいろいろありました。その話でもしようか。母親の代で時代も変わったみたいで、あまり私には影響を与えなかったようにも思うんですが、私はばーちゃん&ひーばーちゃんにひっついていたので、わりといろいろ古風な慣習を受け継いでいます。ニュータイプですね。
夫は私のそういうのを聞いて、鼻で笑ったりするので、憤慨するんですが、まあいいです。
これは、笑える話。
正月にやってはいけないこと。と言うのを、子どものころに教わりました。
その中に「神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら足にイボみたいなのができて、1年間不幸になる」(と、私が解釈していた)ものがありました。
子どものころの私は、こう思っていました。
(かみさんの干し柿の種とか落ちて無いし、わざわざ踏むとか絶対無い)と。
わかりますでしょう。
踏んでしもうたわけですよ!私!!
足の裏になにかひっついている・・・種や・・・!
この種は、あいつの種やんけ!!!
無駄に植物の知識があるため、干し柿用の種と、剥いて食べる柿の種のちがいを知っていた!!!
ここで、私は思い出しました。
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
神様にそなえてある干し柿の種を踏んだら・・・
(´・ω・`)・・・やばい
~ここから冬休みの間、絶望に浸っていた~
あまりにも私の元気がないので、ばーちゃんが、さりげなく何かあったのか聞いてきました。言いませんでした。
だって、神様にそなえてある干し柿の種を踏んだ・・・とか・・・(´・ω・`)・・・やばすぎる・・・
でも、あまりにも苦悩しすぎて、ばーちゃんに聞きました。
私「かみさんの、かきのたね踏んだら、あかんの?」
ばーちゃん「あれ踏んだらイボできるじょ~」
・・・(´・ω・`)ショックだ・・・やばい
またここから数日間苦悩して、別の日に、ばーちゃんに聞きました。
私「かみさんの、かきのたね踏んだら、どうしたらいいの?」
ばーちゃん「しょうがない。なんもならん。」
( 」´0`)」しょうがないってーー
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ (´・ω・`)なんもならんて?セーフ?
というわけで、私は、もういいやと思い、
かきの種の呪いをたまに思い出し怯えながら1年間過ごしました。
私がこのとき学んだのは、
何か人がテキトーに決めてあったり、言ってることは気にしたらしぬ。です。
1日3食食べるというのも、ずっと疑っています。
なので、自分に都合のいいことだけは信じるとよいと思いました。
おみくじで、大凶を引いて絶望できるなら、おみくじはひかなくていいです。
そんなわけで、私は正月にぜったい干し柿を買いません。
今年もよろしくお願いします。
もかり