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2012年8月31日

なぜ文章を書き続けていたのか

私が文章を書き続けるようになった出来事は何個かあるのですが、何故書いているのか?と、自分にはじめて問うた時、人に話したい事があったけど話せなかったという答えでした。

私は幼いころからたいそう世の中を呪い怨んでいたので、いつか打ち壊してやろうと思っていたものです。

根が小心者なので、その程度の器では、そのようなことは叶えられるわけでもなく、かわいらしい子を産みましたので、頭の中が奇妙なことになり、積み重ねてきた怨念も、すっ・・・と、抜けていったのでした。

それが抜けるまで、人生においては長い・・・といえども、歴史からしてみれば一瞬。大きな何かが絶え間なく押し寄せてきて難儀しましたが。

自分が長い年月をかけてかき集めてきたものを手放してみると、いままでそのための道具だけが残っていたことに気づきます。自分の大半は、そういったかき集めた念が占めていた事もあり、それが道具を使うためのエネルギィでありました。道具がうまく使えなくなり、何かポッカリと穴があいたような、空虚を抱いていたのでありました。

そういうわけで、またなんとはなしに文章を書き始めるのですが、私が書いているのは文章であり、それは文章でしかありません。

文章を書くならば。ということで、よい文章を書こうという事を思いまして、それに関心を向けたこともありますが、どうも違う。どういうわけかしっくりこないわけで、それは何故だろうと思っていました。

あるとき、何かが足りないようだ。ということに気づき、何が足りないのだろうか・・・と思いながらも文章を書いていました。どうしても、それは文章でしかないのです。

それでも書いていると、どうやら文章を書くための重要なものが自分の中に今はない。ということがわかってしまったのです。これは、いくら書いても、どうする事も出来ないものでした。

一時期、ないなら手に入れるじゃない。ということで、それを手にするために、愛だの幸福だのと現を抜かしていたこともありますが、遠回りするだけだ。ということにも気づいてしまいました。

そのようなわけで、これは私にとっては長年のよい遊び相手でもあり、今となっては危ないものでもあるということです。

2012年8月30日

毎日楽しそうでうらやましいわ

過去に数回、

毎日楽しそうでうらやましいわ

と言われた事があり、あれ??褒められてるの!わーい。
と子どものころは思っていたけれど、どうやら馬鹿にされているらしい。
というより、あきれられているらしい。ということがわかり、

(楽しそうにしたらあかんのか・・・これはいかんぞ)

と思い、楽しいことは秘密にする事にして生きていこうという事にした。

自分の時間を使って、無駄な楽しい妄想に費やすということは不快らしい。

それ・・・おもしろいよね・・・?
と言うことも、たいていは、深刻なものだとして受け止めるべきで、楽しく感じてはいけないようだ。たとえ、楽しい部分を見つけてしまっても、それは人と共有してはいけないというものが存在しており、楽しい事はタブーとされているものがある。

何もかもすべてを楽しいと思うわけでもなく、とりわけ普通の出来事を、おそろしく深刻な方向に多くの人で流していく、もしくはその逆が起こるとき、おそろしさを感じてその流れから離れようとする、それがいけないらしい。いっしょに流れなさい。と言われているような、何かを感じ、さらにおそろしくなり、逃げたくなる。それは大きなもので、逆らうよりも、脇によけるのがいちばん手っ取り早い。

時にはそれにのって一緒に流れていくのも、また、楽しい。

楽しい流れからは、私は見えず、
悲しく退屈な流れからは、私が離れて楽しそうにしている姿が見えてしまう。

ただ、それだけのことじゃあないですか。
流れに身をまかし、流れた先で、流れているときにみたその光景を確かめに戻ってくるのは稀で、たくさん流れていったひとはいるけれど、たいていは戻ってこないものだ。私も同じように戻らないもんだ。

2012年8月29日

いやなことといいこと

なんでいやなのかなあ。なんでいいのかなあ。

と、言った事を自分に問うのですが、答えがいつも見つかるわけでもなく。
そして、その問いの答えは自分の中だけにあるもののようですが、
適当だったり都合の良いものも作っているようです。

先日、たまたま、ルサンチマンというのを見ていたのですが、
この中に自分にとっていやなことといいことがいろいろあります。
ルサンチマン - Wikipedia

じっくり読んでいると、不思議な組み合わせとかがあるので、不思議なもんだなあと思っていたのですが、その中で奴隷精神と言うのを見て、なんともいえない、拒絶反応(それはやだー!というもの)が自分の中にあるようなので、それはいったい何故なのか。というのが気になりました。

君主-奴隷道徳 - Wikipedia
これは自分がこれである。とは断言できないものであり、こういうものが全部自分の中でごっちゃにあるものだととらえましたが、それは内々の話でして、たまには無になると言った事を考えました。

だいたいのところ、悩ましいものは多かれど、
蟲師を見てて思ったのは、それがそれとしてあるということのようなものですか。
判断するのは保留にしておくということが多いので、いけません。

とか言った事を書くと、大丈夫かと心配されるんですが、元気です。
たまーに、ふと、思い出すんですよね。

※後で読み返してみて、蟲師見た日記かよ!と、笑ってしまったじゃないか。

2012年8月28日

図書館には感謝しています

私が子どものころ、大きな本屋も、インターネットもなかったので、今思うと、情報源が少なかったと思います。
当時はそういうことも感じてなくて、それでも何も不便だと思っていませんでした。
だから、それでもよかったのかなとも思っています。 

そんな子どものころの私はよく図書館を利用していました。
お金もなかったし、本屋があっても欲しい本が買えなかっただろうなと思いました。
ちょっとくだらないけど読みたい本とか、買ってもらえなかった・・・というより、買って欲しいと言えなかったんです。 

図書館の本は自分の本ではなかったので、知りたかった事や印象に残ったキレイな絵を自分の手元に残しておくことができませんでした。コピーすればいいと思いますが、子どものころはコピーすることも知らなかったので、すべてノートに書き写していました。そのノートは母がよくスーパーで買ってくれた。5冊セットになっているあのノート。あと、らくがき帳ね。

大人になって本を読みたいと思って、図書館があってもお金があっても、時間や熱意が子どものころに比べたら少なくなってしまったみたいで、今思えば子どものころ町にあった図書館には感謝しています。

 もし、あの図書館がなかったら、江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズを全部読む事もなかっただろうし、今では買えないような本に触れることも一生なかっただろうに。
 
そこは私が住んでいた町にはあまり似つかわしくないような(と言ったら失礼だけど子供のときはそう思ってた)とても立派で、私が想像していた都会の建物のようでした。そこにある設備は、とてもハイテクだと思いました。
読書や勉強ができるスペースもたっぷりあって、日常を忘れて勉強したりできる場所でもありました。それは学校ではできなかったことだと思います。

こんなものにカネをかけやがって。と、怒るんじゃないかと思われていたおじいちゃんも、なぜか好意的で、今思えば、なぜ文句を言わなかったのかわかります。

私は、そんな事を思いながらですね、インターネットもそういうわたしの子どものころの図書館のようなものだという幻想のようなものを抱いていましたが、実際はちょっと違っていて、厳しい場所だというのも思っています。

話はガラッとかわりますけど私の中ではこの流れで、2011年ごろから、プログラムを動画で学習できるという日本の「ドットインストール」というサービスがあるのを思い出しました。わたしも勉強するぞとか思ったのですが、怠惰がたたって勉強していません。30代の私ってやあね。年は関係ないか。

そんな30代の私はさておき、この記事を書いていて、あのサービスって、すばらしいなあ。と思いました。と思ったけど、この記事を読んだら、なんか違うのかなとも思ったんだけど、図書館に行っていた子どものころの私のような子が、将来感謝するかもしれない。なんて思ったんですよね。

2012年8月27日

「雑記」を書くらしい

という雑記です。

弱ったな。雑記書いてる自分がいやになってきましたね。
雑記しかかかない自分が「いや」というより、雑記が雑記ラベルにたまっていく、得体のわからないものをわからないままそのままにしてやり過ごしていくようなことが厭であり、なんでも型にはめてラベルをつけてどうにかしたいコノヤロウっていう感じも含めて、総合的にいやになってきました。

「ブログ」と「むすめ」はかなり好きなので、それでもいいです。
好きなので、自分でも納得します。他のものが少ないのも納得します。無理しましたから。ああ。何を見ているかというと、このブログのラベル(カテゴリ)です。

モヤッっとしていたり、なんかわからんが気持ち悪いようなことや、あやうくやり過ごすところだったわ~ということを含めて、ひたすら書きたいと思ったりしていたのですが、そういうことがいったい何であるのか?というのが、自分でもわからず、まあわからないままでもよいだろう。とも思う面がありました。それでも無理して、パッケージつけて前面にコレ!として押し出そうかとも思った事もありますが、それは踏み込むべきところかどうかを判断するのがとても難しいゾーンだとも思っているので、悩ましくなります。

気持ち悪いゾーンを分厚い皮をかぶせてストーリー化させるのは、莫大な労力を要するし、皮がなければ、即効性がある場合と、かなりのダメージの場合があり、やさしい処方にしておくのが、お鍋でグツグツやった魔女のクスリ。

意味がわからないというのは、優しい処方になっているということで、ゆるやかな効能を感じるということであって、本来ならばかなりすごいことなんだということ。

ゆるりとくるには、やさしいものを継続的に。


私にはひとつどうしても曲げないと思っているものがあり、それが本当にそうなのだというのは、自分以外の人がいなければいけません。これはすぐに納得できるものではないと、子どものころから思っていたので、いくら絶望しても、諦めませんでした。まだ、諦めていません。

あのゾワゾワはとても恐ろしい。

2012年8月26日

日記はその日に書くもの

夏休みがそろそろ終わろうとしています。

子どもの夏休みの宿題の中に、1行日記なるものがありました。
毎日1行だけ日記を書けばいいという、子どもでもなめちゃうような難易度の低そうな宿題です。

しかし、簡単そうに思えて、すごくハードルの高い宿題であった~。

簡単だ!と意気揚々とはじめた1行日記。
毎日あったことを1行だけかけばいいので、インターネットでは、Twitterで1ツイートすればいいくらいです。覚えているときは、毎日書いていて、つい2行になったり、明日の分まで書いちゃいたいという衝動にかられたりしますが、この宿題をズルせずに完璧に終わらせることは出来ませんでした。



夏休みももうすぐ終わりだ。ということで、
宿題の最終チェックにはいったときに発覚。

1行日記を8月にはいってから書いていないじゃないか!!

ヒェー。
まだこの時点では、まあ大丈夫だろうと思うわけで、
しょうがないやろう。ということになり、過去の1行日記を書いていたら、
この日何してたのか、わからない!という、<わからない日>がある事が判明。

母娘で思い出そうとしますが、二人とも忘れたという、
思い出が一切存在しない空白の日がある!

いやぁ、一日一日を生きて今日があるはずなのに、
まるで存在しなかったかのような日が存在するなんて!と、途方にくれる、私と娘。

「おかーさん!なんでおぼえてないのよ!」
「えっ・・・。忘れたんだもん・・・。じゃあ、君は1年前の○月×日の事を覚えているのか!」
「それはかんけいないしー!こどもだったし!」
「きみはいまも子どもだよ!」

何をやっているんだ、私たちは。

しかし、どういうわけか、おかーさんはブロガー。娘の前では、自称マジョ。
こっそりその日撮影した写真を眺めて記憶の糸をたどる事に成功。

「その日、夕飯にあれ食べた。」
「その日は、二人であそこに行った。」

娘、フムフム。娘、フムフム。
無事に過去の1行日記を書く事に成功しました。

娘は、「ヤッホー!宿題クリアー!」っていうわけですが。

おかーさんは、
日記はその日に書くもの。
簡単なことを完璧に出来ている人は、すごいじゃあ、ありませんか。
それがたとえ自分のためだけであっても!
私は30年以上生きていますが、それがちゃんとできたという実感はありませんけどね。と思うのでありました。

娘はここを何も感じずに通過していくようで、ほんのり寂しいような気がしました。




2012年8月25日

ぼーっとしてるなんて、おもしろくない

ずいぶん前に娘がこんな事をいいました。

「なんでおとなは、じーっとしてても、ひまじゃないの?」

詳しく説明すると、お父さんは、しゃべらないし、座ったまま何もしないのに、なぜ退屈しないのか、わたしにはわからないよ。どうしてじっとしていられるの?という、素朴な疑問のようでした。

これを彼女が言った流れは、私は1秒たりともじっとなんかしてられない!何もしないまま時間がすぎるなんて、耐えられないんだからねっ!という話から。

大人になると、そういうことも面白くなるの?
何もしてないけど、いやじゃないの?
それ、おもしろいの?
ねぇねぇ、いっしょにあそぼうよ!

という感じ。

私も大人になってしまってるのか、大人の肩を持ちたくなりますが、
ぼーっとして何も考えてないときとか、何もしてないような時もあるんだよ。
君はそういうときに、「つまらない!」と思うみたいだけど、みんながつまらない!って思うわけじゃないっていうことなんだろうねえ。不思議なもんだ。というと、
娘は、「ほーーーーーーーーーーーーーーー!」と、おどろいていたようです。

「私にはいつそういう時がくるのかなー」だって。カワユス。
毎日たのしいんだろーなー、こいつめー。


わからないと、泣いちゃう

夜中にテレビを見ていたら、アスカコス(たぶん)で何かをしている女性の様子がたまたま放送されていて、見てました。舞台は、ヨーロッパらしく、はじめて見たのでルールはよくわからないけど、印象に残る事がありました。

桜 稲垣早希のブログを使った旅企画・第4弾
ロケみつ | 目指せ!ポルトガル ヨーロッパ横断ブログ旅 | MBS

そのときの様子がUPされている記事。
2012年8月25日 | 目指せ!ポルトガル ヨーロッパ横断ブログ旅: サンデーノー

旅の途中で、夜中に宿を探していて宿泊先が見つからず。
彼女は外国語があまり理解できないようで、親切に話しかけてくれた方の言葉がわからず、とても悲しそうな顔をしているシーンが放送されていました。
私はそれを見て、なぜか「赤ちゃんも、親の言っている事がわからなくて泣くのか?」と、思っていました。夜だったし。

自分に一生懸命話しかけてくれていて、話しかけてくれているのはわかっても、何を話しているのか理解できないとき、人は辛くなるのか。と。

おじさんは一生懸命、この辺のホテルは駅の近くなので値段が高いんだよ~という情報を伝えたいんだけど、彼女は外国語がうまく聞き取れず、ちぐはぐに。お互い情報がうまくやりとりできないのがわかっていて、通じないので、じゃあね。と、わかれてしまう。というシーンが、私にとってかなり印象的でした。


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